Yes であり、No でもある。
2004年12月19日 恋愛今日はメシカノ提案の「クリスマス会」。
お互い忙しい身なため、本当のクリスマスの日は避けて
ちょっと早めにやりましょう、と。
カノジョが作り用意した料理を食べながら、
僕がプレゼントで買ってきたCDを聞きながら、
相も変わらず二人でたらふく食べて、いーっぱい話して。
カノジョが喜ぶためには何をすればいいのか、
僕の基本方針。
どーなるかは、時が解決してくれる。
今はそういう時期。
お互い忙しい身なため、本当のクリスマスの日は避けて
ちょっと早めにやりましょう、と。
カノジョが作り用意した料理を食べながら、
僕がプレゼントで買ってきたCDを聞きながら、
相も変わらず二人でたらふく食べて、いーっぱい話して。
カノジョが喜ぶためには何をすればいいのか、
僕の基本方針。
どーなるかは、時が解決してくれる。
今はそういう時期。
メモ
2004年12月18日627 名前: 名無し物書き@推敲中? 03/08/28 21:14
少しお借りします。
高校の頃、憧れだった同級生がいました。
背が高くて、運動神経がよくって、たとえて言うなら
坂口憲二をもう少しワイルドにしたような感じの人でした。
高校時代はそんなに共通点もなかったのですが、
大学が二人とも関西地方だったこともあり、個人的に会うようになりました。
お互いスポーツが好きだったので、スノーボードやダイビング、
ボディボードを楽しんでいました。
お酒も好きで、あちこち飲み歩いていたような気がします。
私の好意は気づかれていたと思うのですが、長い間仲良しの異性の友達、でいました。
それぞれに恋人がいた時期もありましたが、彼との友情は変わることはありませんでした。
大学を卒業し、お互いに実家に帰り、就職しました。
なれない環境ながらもそれぞれの分野でがんばっていました。
会社でのストレスがたまると、どちらともなく誘い合い、
夜中にドライブしたりもしました。
ずっとこのまま、こういう関係が続くと思っていました。
あるとき、仕事で少し鬱気味だった私が、彼を誘おうと携帯に電話をかけました。
でも彼は出ません。あ、寝てるんだな、明日電話しよう…そう思いました。
そしてその次の日も電話をかけました。出ません。「気づいたら電話してね」
留守電を入れましたがその日も返事はありませんでした。
3日目。まだ電話はありません。今までこんなことはありませんでした。
どうしたんだろう。気になって、何年振りかで彼の実家に電話をかけました。
「あの、Wくんは…」「今、入院してるんですよ」「え?」
彼のお母さんに教えられた病院に行きました。
不安ばかりが先立ち、悪いことばかりが頭に浮かびます。
病室に行くと、彼は漫画を読んでました(w
思いのほか元気です。というか健康にしか見えない。
私に気づくと「え?なんでわかったの…?」「お母さんに教えてもらって…」
「ああ、そうだったんだ…」
「びっくりしたよ。電話に出ないし。どうしちゃったの?会社お休みしてるの?」
「会社は辞めた」「え?」「もう俺、勤められないかも」
「え??だって、元気そうじゃない?どこが悪いの?」
「俺、C型肝炎なんだ」「…」
幼い頃の輸血が原因で、肝炎に感染したということでした。
私はまったく知りませんでしたが、検査入院とか定期的な通院はしていたそうです。
彼はなぜか通常よりも病状の進行が早く、すでに初期肝硬変の症状があったということでした。
詳しくはわかりませんが、C型肝炎には特効薬はなく、このままでは肝臓ガンになって
死ぬのを待つばかりだということがあとでわかりました。
このときの入院は、当時もっとも有効といわれる治療をするために入院したものでした。
入院は3ヶ月ほどだったと思います。私はほとんど毎日お見舞いに行きました。
お見舞いというと彼は嫌がるので、病院に「遊びに」行きました。
しばらくが過ぎた頃、彼は「薬が効いてないんだ。この治療が効かないということは
もう今の俺には治療方法がないということなんだ…」といいました。
切なくて何も言えませんでした。
どんな励ましも軽くなってしまうようで言葉を出すことができませんでした。
検査入院(?)が終わった後、二人で会いました。
夜の公園を散歩して、ライトアップされている噴水のそばに座りました。
彼が言いました。
「俺、お前のことずっと好きだった。付き合いたいし、結婚したいとも思ってた。
でも俺、こんな病気だ。お前より絶対先に死ぬ。そんなことになったらお前を
悲しませるよな。だから俺は付き合ってほしい、とは言えなかった。
だからもし、今回の治療でいい結果が出たら俺、お前に付き合ってくれっていおうって
思ってた。でもいい結果は、出なかった。だから俺は決めた。
これから好きなこと、やりたいことを全部やる。バイクで日本一周したいんだ。
沖縄とか海外に潜りにも行きたいしな。カナダに山篭りもしたい。
でもお前とは一緒にいれない。もうお前との思い出は作りたくないんだ。
お前が苦しくなるからな。二人で会うのは今日が最後にしよう。電話はいつでもしてこい。
仕事がイヤになったらメールで憂さばらししてこい。でも、もう会うのはやめにしよう。」
泣きながら別れました。どうして会ってはいけないのかわかりませんでした。
でも、彼が決めたこと、彼のこれからの人生のため、私は我慢しなければならないと思いました。
それからは電話、メールの関係が続きました。月に1度程度の連絡が年に数回になり、
最近はほとんど連絡をとっていませんでした。
その彼から、先週電話が入りました。
「元気か?」「うん。そちらは?」「おう、俺も相変わらずだ。お前、男はできたか?」
「うん…好きな人がいるんだけど、何考えてるかわからなくて…困ってる」
「そうか…しんどいな。まぁ、思い残すことのないようにな。女は度胸だからな、
ぶつかってけよ」「あはは、んで玉砕しちゃうんだよねー」
いつもどおりの他愛のない話。いつもどおりの定期連絡でした。
そしてその2日あと、彼からまた電話が入りました。
こんなに間をおかずに連絡がきたことはここ数年ありませんでした。
「もしもし?どしたの?」「Wの母です…息子の電話からかけてます。Wは、昨夜死にました」
「!?」
彼のお母さんは、彼の携帯の発信履歴をみてかけてきたようでした。
私への電話が、最後の発信だったようです。
彼の携帯には未送信のメールが残っていました。私宛でした。
「Mへ。長い間ありがとう。お前との付き合いももう10年以上になるな。
考えてみれば、俺の人生、1/3はお前と一緒だったわけだ。こんな体でごめんな。
お前を幸せにしてやりたかったけど、俺には無理だった。電話で言ってた男には連絡したか?
お前は素直じゃないからなかなか気持ちが伝わらないかもしれないけど
思い切って話をしてみろよ。絶対大丈夫だから。俺が保証する。
いいか、幸せな人生生きろよ。俺、お前と出会えて、おまえと10年間過ごすことができて
本当に幸せだった。ありがとう。俺の分まで、長生きしろよ。お前が死んだら天国で
ボードやろうな。でもお前、ばーちゃんになってて滑れないかもな(笑)じゃあな。」
まだ日にちの感覚が戻っていませんが、彼のお葬式が終わって3日目だとおもいます。
今日から会社に行くことができました。すべてが終わってしまったけど、何もなく毎日は過ぎていく。
今はまだ何かを考えるとか、できないけれど、これから彼の分まで生きなきゃならないな、と思います。
彼の人生をもらってしまった、って感じです。今の私には何かをすることはできないです。
でも、明日から、考えよう、そう思ってます。
まだ落ち着いていないので長文で、まとまりなくてすみませんでした。
誰にも言えなかったのでここに書かせてもらいました。ありがとうございました。
少しお借りします。
高校の頃、憧れだった同級生がいました。
背が高くて、運動神経がよくって、たとえて言うなら
坂口憲二をもう少しワイルドにしたような感じの人でした。
高校時代はそんなに共通点もなかったのですが、
大学が二人とも関西地方だったこともあり、個人的に会うようになりました。
お互いスポーツが好きだったので、スノーボードやダイビング、
ボディボードを楽しんでいました。
お酒も好きで、あちこち飲み歩いていたような気がします。
私の好意は気づかれていたと思うのですが、長い間仲良しの異性の友達、でいました。
それぞれに恋人がいた時期もありましたが、彼との友情は変わることはありませんでした。
大学を卒業し、お互いに実家に帰り、就職しました。
なれない環境ながらもそれぞれの分野でがんばっていました。
会社でのストレスがたまると、どちらともなく誘い合い、
夜中にドライブしたりもしました。
ずっとこのまま、こういう関係が続くと思っていました。
あるとき、仕事で少し鬱気味だった私が、彼を誘おうと携帯に電話をかけました。
でも彼は出ません。あ、寝てるんだな、明日電話しよう…そう思いました。
そしてその次の日も電話をかけました。出ません。「気づいたら電話してね」
留守電を入れましたがその日も返事はありませんでした。
3日目。まだ電話はありません。今までこんなことはありませんでした。
どうしたんだろう。気になって、何年振りかで彼の実家に電話をかけました。
「あの、Wくんは…」「今、入院してるんですよ」「え?」
彼のお母さんに教えられた病院に行きました。
不安ばかりが先立ち、悪いことばかりが頭に浮かびます。
病室に行くと、彼は漫画を読んでました(w
思いのほか元気です。というか健康にしか見えない。
私に気づくと「え?なんでわかったの…?」「お母さんに教えてもらって…」
「ああ、そうだったんだ…」
「びっくりしたよ。電話に出ないし。どうしちゃったの?会社お休みしてるの?」
「会社は辞めた」「え?」「もう俺、勤められないかも」
「え??だって、元気そうじゃない?どこが悪いの?」
「俺、C型肝炎なんだ」「…」
幼い頃の輸血が原因で、肝炎に感染したということでした。
私はまったく知りませんでしたが、検査入院とか定期的な通院はしていたそうです。
彼はなぜか通常よりも病状の進行が早く、すでに初期肝硬変の症状があったということでした。
詳しくはわかりませんが、C型肝炎には特効薬はなく、このままでは肝臓ガンになって
死ぬのを待つばかりだということがあとでわかりました。
このときの入院は、当時もっとも有効といわれる治療をするために入院したものでした。
入院は3ヶ月ほどだったと思います。私はほとんど毎日お見舞いに行きました。
お見舞いというと彼は嫌がるので、病院に「遊びに」行きました。
しばらくが過ぎた頃、彼は「薬が効いてないんだ。この治療が効かないということは
もう今の俺には治療方法がないということなんだ…」といいました。
切なくて何も言えませんでした。
どんな励ましも軽くなってしまうようで言葉を出すことができませんでした。
検査入院(?)が終わった後、二人で会いました。
夜の公園を散歩して、ライトアップされている噴水のそばに座りました。
彼が言いました。
「俺、お前のことずっと好きだった。付き合いたいし、結婚したいとも思ってた。
でも俺、こんな病気だ。お前より絶対先に死ぬ。そんなことになったらお前を
悲しませるよな。だから俺は付き合ってほしい、とは言えなかった。
だからもし、今回の治療でいい結果が出たら俺、お前に付き合ってくれっていおうって
思ってた。でもいい結果は、出なかった。だから俺は決めた。
これから好きなこと、やりたいことを全部やる。バイクで日本一周したいんだ。
沖縄とか海外に潜りにも行きたいしな。カナダに山篭りもしたい。
でもお前とは一緒にいれない。もうお前との思い出は作りたくないんだ。
お前が苦しくなるからな。二人で会うのは今日が最後にしよう。電話はいつでもしてこい。
仕事がイヤになったらメールで憂さばらししてこい。でも、もう会うのはやめにしよう。」
泣きながら別れました。どうして会ってはいけないのかわかりませんでした。
でも、彼が決めたこと、彼のこれからの人生のため、私は我慢しなければならないと思いました。
それからは電話、メールの関係が続きました。月に1度程度の連絡が年に数回になり、
最近はほとんど連絡をとっていませんでした。
その彼から、先週電話が入りました。
「元気か?」「うん。そちらは?」「おう、俺も相変わらずだ。お前、男はできたか?」
「うん…好きな人がいるんだけど、何考えてるかわからなくて…困ってる」
「そうか…しんどいな。まぁ、思い残すことのないようにな。女は度胸だからな、
ぶつかってけよ」「あはは、んで玉砕しちゃうんだよねー」
いつもどおりの他愛のない話。いつもどおりの定期連絡でした。
そしてその2日あと、彼からまた電話が入りました。
こんなに間をおかずに連絡がきたことはここ数年ありませんでした。
「もしもし?どしたの?」「Wの母です…息子の電話からかけてます。Wは、昨夜死にました」
「!?」
彼のお母さんは、彼の携帯の発信履歴をみてかけてきたようでした。
私への電話が、最後の発信だったようです。
彼の携帯には未送信のメールが残っていました。私宛でした。
「Mへ。長い間ありがとう。お前との付き合いももう10年以上になるな。
考えてみれば、俺の人生、1/3はお前と一緒だったわけだ。こんな体でごめんな。
お前を幸せにしてやりたかったけど、俺には無理だった。電話で言ってた男には連絡したか?
お前は素直じゃないからなかなか気持ちが伝わらないかもしれないけど
思い切って話をしてみろよ。絶対大丈夫だから。俺が保証する。
いいか、幸せな人生生きろよ。俺、お前と出会えて、おまえと10年間過ごすことができて
本当に幸せだった。ありがとう。俺の分まで、長生きしろよ。お前が死んだら天国で
ボードやろうな。でもお前、ばーちゃんになってて滑れないかもな(笑)じゃあな。」
まだ日にちの感覚が戻っていませんが、彼のお葬式が終わって3日目だとおもいます。
今日から会社に行くことができました。すべてが終わってしまったけど、何もなく毎日は過ぎていく。
今はまだ何かを考えるとか、できないけれど、これから彼の分まで生きなきゃならないな、と思います。
彼の人生をもらってしまった、って感じです。今の私には何かをすることはできないです。
でも、明日から、考えよう、そう思ってます。
まだ落ち着いていないので長文で、まとまりなくてすみませんでした。
誰にも言えなかったのでここに書かせてもらいました。ありがとうございました。
メモ(海とおじさん)
2004年12月18日 メモ785 名前: 癒されたい名無しさん 04/09/23 13:41:00 ID:YVeMi+Qx
小学校3年生の時、海に行って溺れた。
親は大人同士で話をしていて、気づいてくれなかった。
胸くらいの深さの所を歩いていたら、急に深くなって(2mくらい?)
突然沈んでしまって、あとはもがいてももがいても出られなかった。
沢山水を飲んでしまって、頭の遥か上の方に水面が見えて
苦しくて「もう死ぬんだな」と子供心に思ったその時
身体を掴まれて水から引きずり出された。
知らないおじさんが助けてくれた。
足の付く深さまで来たらおじさんが言った:
「砂浜まで連れてってやることも出来るけど、それだとあんたは
一生、海が怖くなるから、手を持っててやるからバタ足して自分で帰れ」
苦しかったけど、おじさんに手を引かれて自力でバタ足で浜辺まで辿り着いた。
見たらもうおじさんはどこにもいなかった。
あの時のおじさん、ありがとう。
お陰で、海も水も怖くならなくて済んだよ。
中学校では水泳部に入ったよ。
大して泳ぐのは早くなかったけど、泳ぐのが大好きになったよ。
小学校3年生の時、海に行って溺れた。
親は大人同士で話をしていて、気づいてくれなかった。
胸くらいの深さの所を歩いていたら、急に深くなって(2mくらい?)
突然沈んでしまって、あとはもがいてももがいても出られなかった。
沢山水を飲んでしまって、頭の遥か上の方に水面が見えて
苦しくて「もう死ぬんだな」と子供心に思ったその時
身体を掴まれて水から引きずり出された。
知らないおじさんが助けてくれた。
足の付く深さまで来たらおじさんが言った:
「砂浜まで連れてってやることも出来るけど、それだとあんたは
一生、海が怖くなるから、手を持っててやるからバタ足して自分で帰れ」
苦しかったけど、おじさんに手を引かれて自力でバタ足で浜辺まで辿り着いた。
見たらもうおじさんはどこにもいなかった。
あの時のおじさん、ありがとう。
お陰で、海も水も怖くならなくて済んだよ。
中学校では水泳部に入ったよ。
大して泳ぐのは早くなかったけど、泳ぐのが大好きになったよ。
メモ
2004年12月18日119 名前: 名無し物書き@推敲中? 02/06/29 20:26
受験生だった当時、進路や家庭のことで悩み、半ばノイローゼになり突発的に家出。
朝から制服のまま電車を乗り継ぎ、新宿から新潟まで行ってしまった。
二度と帰る気なかったし、途中で鞄も学生証も捨てた。(後に激しく後悔)
ある小さな駅で(当然だけど)駅員にあやしまれ、駅員室につれてかれる。
でもそこの駅の駅員さん達は何も言わず、ただ暖かいコーヒーを飲ませてくれた。
私が終電まで何も言わずにいたら「家に電話しろ。一泊だけ泊めてやる。」と
何と家まで連れて帰ってくれた。
そのお家の奥さんの料理がまたあたたかくて、涙がとまらなかった。
朝、駅員さんが仕事に行くときに一緒に家を出て、電車賃を借りて帰ることに。
彼は私に何も聞かないし、お説教もしない。ただ、電車が出る時に一言、
「つらかったらまたおいで」って新潟弁で言ってくれた。
帰りの電車の中、奥さんがおにぎりをつくってくれて、頬ばりながら泣いた。
帰っても何も状況は変わってなかったけど、もう逃げ出すことはなかった。
受験生だった当時、進路や家庭のことで悩み、半ばノイローゼになり突発的に家出。
朝から制服のまま電車を乗り継ぎ、新宿から新潟まで行ってしまった。
二度と帰る気なかったし、途中で鞄も学生証も捨てた。(後に激しく後悔)
ある小さな駅で(当然だけど)駅員にあやしまれ、駅員室につれてかれる。
でもそこの駅の駅員さん達は何も言わず、ただ暖かいコーヒーを飲ませてくれた。
私が終電まで何も言わずにいたら「家に電話しろ。一泊だけ泊めてやる。」と
何と家まで連れて帰ってくれた。
そのお家の奥さんの料理がまたあたたかくて、涙がとまらなかった。
朝、駅員さんが仕事に行くときに一緒に家を出て、電車賃を借りて帰ることに。
彼は私に何も聞かないし、お説教もしない。ただ、電車が出る時に一言、
「つらかったらまたおいで」って新潟弁で言ってくれた。
帰りの電車の中、奥さんがおにぎりをつくってくれて、頬ばりながら泣いた。
帰っても何も状況は変わってなかったけど、もう逃げ出すことはなかった。
メモ(ある爺さんが伝えたかったこと)
2004年12月18日 メモ731 名前: 癒されたい名無しさん 04/09/15 22:57:26 ID:AuwkFSm3
13〜4年前、俺は親元を離れて一人暮らしの大学生…という名のロクデナシだった。
自己愛性人格障害の父親に反発しつつも影響をモロに受けプライドばかり高く、
傲慢さを誇りと取り違え、感謝の気持ちを知らない鼻持ちならない香具師だった。
そんなとき俺は交通事故を起こした。原付で90歳の爺さんにぶつけてしまった。
夜中とはいえ横断歩道を渡っていたのに直前まで気が付かなかったこちらのミス。
地元の名士だったらしく、集まってきた付近の住民たちが口々に俺を責め立てる。
救急車で運ばれる爺さん。オタつきながら俺はこう考えていた。
「これで前科者か?どうしよう…」「死んじまったら補償が…」下衆だった。どうしようもなく。
一緒に走っていた友人に付き添われ、逃げ出したい衝動を堪えつつ病院まで付いていった。
こいつは警察の事情聴取にまで付き合ってくれた。
そして略式裁判。思ったより処分は軽かった。弁護士だった爺さんが減刑嘆願したのだと判事が教えてくれた。
爺さんが退院したと聞き、菓子折を持って友人と見舞いに行った。その時爺さんはこう語った。
「事故を起こして怖い、逃げ出したい。そう考えてもおかしくないのにキミは頑張ってくれた。
そんな若者を前科者にしたくはなかった。それに次は僕が頑張る番だと思えたからね。」
奥さんに聞いた話では、事故が脳内出血を誘発しかけたらしい。
そんな状況でこちらの事まで気にかけてくれたとは…雷に打たれたような衝撃を受けた。
それまで俺は「正直に生きるのはバカ」だと教えられ、信じていた。
だが爺さんは(そして友人は)このDQNに教えてくれたのだ。「誤魔化すな。人には誠意でぶつかれ」と。命を張って…。
2年後、地元に近い県庁所在地の市役所に就職が決まった。真っ先に爺さんに報告したかった。
爺さんは健在だった。そして戦前の官庁勤めの経験からこう語ってくれた。
「欲や誘惑に走るな。市民のために尽くせ」と。
やれ出世だ高給だ、要領よくとしか言わない親とは大違いだった。
月日は流れた。爺さんや友人とも距離が離れたせいか疎遠になってしまった。
爺さんに教わった生き方が出来ているか…と今でも考える。
出来ていなければせめて伝えよう。父親として娘に、妻の胎内の子に。
友人に恵まれたこと、こんな気骨の士にめぐり合えた事を。そして…爺さんが命がけで教えてくれた事を。
13〜4年前、俺は親元を離れて一人暮らしの大学生…という名のロクデナシだった。
自己愛性人格障害の父親に反発しつつも影響をモロに受けプライドばかり高く、
傲慢さを誇りと取り違え、感謝の気持ちを知らない鼻持ちならない香具師だった。
そんなとき俺は交通事故を起こした。原付で90歳の爺さんにぶつけてしまった。
夜中とはいえ横断歩道を渡っていたのに直前まで気が付かなかったこちらのミス。
地元の名士だったらしく、集まってきた付近の住民たちが口々に俺を責め立てる。
救急車で運ばれる爺さん。オタつきながら俺はこう考えていた。
「これで前科者か?どうしよう…」「死んじまったら補償が…」下衆だった。どうしようもなく。
一緒に走っていた友人に付き添われ、逃げ出したい衝動を堪えつつ病院まで付いていった。
こいつは警察の事情聴取にまで付き合ってくれた。
そして略式裁判。思ったより処分は軽かった。弁護士だった爺さんが減刑嘆願したのだと判事が教えてくれた。
爺さんが退院したと聞き、菓子折を持って友人と見舞いに行った。その時爺さんはこう語った。
「事故を起こして怖い、逃げ出したい。そう考えてもおかしくないのにキミは頑張ってくれた。
そんな若者を前科者にしたくはなかった。それに次は僕が頑張る番だと思えたからね。」
奥さんに聞いた話では、事故が脳内出血を誘発しかけたらしい。
そんな状況でこちらの事まで気にかけてくれたとは…雷に打たれたような衝撃を受けた。
それまで俺は「正直に生きるのはバカ」だと教えられ、信じていた。
だが爺さんは(そして友人は)このDQNに教えてくれたのだ。「誤魔化すな。人には誠意でぶつかれ」と。命を張って…。
2年後、地元に近い県庁所在地の市役所に就職が決まった。真っ先に爺さんに報告したかった。
爺さんは健在だった。そして戦前の官庁勤めの経験からこう語ってくれた。
「欲や誘惑に走るな。市民のために尽くせ」と。
やれ出世だ高給だ、要領よくとしか言わない親とは大違いだった。
月日は流れた。爺さんや友人とも距離が離れたせいか疎遠になってしまった。
爺さんに教わった生き方が出来ているか…と今でも考える。
出来ていなければせめて伝えよう。父親として娘に、妻の胎内の子に。
友人に恵まれたこと、こんな気骨の士にめぐり合えた事を。そして…爺さんが命がけで教えてくれた事を。
908 名前: 癒されたい名無しさん 04/10/11 21:45:06 ID:lWo2Nn9I
10年前、まだ俺が高校生の時だ。日曜日に学校で検定試験があった。
しかし、俺は激しく寝坊してしまった。乗る筈だった電車は出発している。
田舎の宿命だ。次の電車は30分後、試験には到底間に合わない。
母に、学校まで送ってもらうことにしたのだが、道すがらグチグチ説教を垂れてきた。
せっかくの休みなのに起こされて不満だったんだろう。
だらしないだの、寝る時間が遅いだの、延々と出てくる避難に自業自得とはいえうんざりしていた。
混んだ道を避け、車は裏道を順調なペースで飛ばしていた。あと4,5分で着くな、という頃だった。
前方の交差する道路から、一旦停止の表示を無視して一台の車が飛び出してきた。
突然のことだった。ぶつかる、と思った。
母の反応速度は思いの外速く、即座にブレーキを思いきり踏んだ。
タイヤがーキーーーと音を立て軋む。身体は大きく前に放り出される感覚。
車はぴたりと止まった。どこもぶつけず、かすりもせず、事なきを得た。
母も俺も無傷だ。正直ビビったが、それ以上に感動していた。
その咄嗟の状況下、母が俺を庇おうとしたからだ。
右手でハンドルを掴み、ブレーキを踏むと同時に、左手で助手席にいる俺の身体を守ろうとした。
コンマ何秒の世界で、ほとんど無意識にされたであろうその行為に母の愛情の深さを知った。
どんな状況下でも、母とは子を守るために無意識に動けるのだ。
一生大事にします、と思った。休みの日にゆっくりしてもらえるようにちゃんとします、とも。
学校に降ろしてもらい、別れ際に言った。「ありがとう。気をつけてゆっくり帰って。」
「はい」微笑んだ母を乗せて車は去っていった。
他の人みたいに泣けるエピソードはないのだが、自分にとっては忘れられない出来事です。
10年前、まだ俺が高校生の時だ。日曜日に学校で検定試験があった。
しかし、俺は激しく寝坊してしまった。乗る筈だった電車は出発している。
田舎の宿命だ。次の電車は30分後、試験には到底間に合わない。
母に、学校まで送ってもらうことにしたのだが、道すがらグチグチ説教を垂れてきた。
せっかくの休みなのに起こされて不満だったんだろう。
だらしないだの、寝る時間が遅いだの、延々と出てくる避難に自業自得とはいえうんざりしていた。
混んだ道を避け、車は裏道を順調なペースで飛ばしていた。あと4,5分で着くな、という頃だった。
前方の交差する道路から、一旦停止の表示を無視して一台の車が飛び出してきた。
突然のことだった。ぶつかる、と思った。
母の反応速度は思いの外速く、即座にブレーキを思いきり踏んだ。
タイヤがーキーーーと音を立て軋む。身体は大きく前に放り出される感覚。
車はぴたりと止まった。どこもぶつけず、かすりもせず、事なきを得た。
母も俺も無傷だ。正直ビビったが、それ以上に感動していた。
その咄嗟の状況下、母が俺を庇おうとしたからだ。
右手でハンドルを掴み、ブレーキを踏むと同時に、左手で助手席にいる俺の身体を守ろうとした。
コンマ何秒の世界で、ほとんど無意識にされたであろうその行為に母の愛情の深さを知った。
どんな状況下でも、母とは子を守るために無意識に動けるのだ。
一生大事にします、と思った。休みの日にゆっくりしてもらえるようにちゃんとします、とも。
学校に降ろしてもらい、別れ際に言った。「ありがとう。気をつけてゆっくり帰って。」
「はい」微笑んだ母を乗せて車は去っていった。
他の人みたいに泣けるエピソードはないのだが、自分にとっては忘れられない出来事です。
442 名前:大人の名無しさん[sage] 投稿日:04/12/05 22:31:10 ID:mQxCAy/M
ごめんなさい
吐き出させてください。
15のとき、だからもう15年以上たつかな 父親が倒れて半身麻痺になった。
自営業で祖父からの床屋やってる父親だよ。おかげで倒れたその日から収入0。
母親がかけてくれていた保険がたった一つあって それもあわせてなんとかパートで兄、中3の私、中1の弟を
誰一人我慢させることもなく学校にいかせてくれたよ。
実の娘が言うのもアレだけど、自慢の母親だ。 めちゃくちゃ怖いけどね。
でもさ、
甘ったれの兄はその後 数年で、シルビア2台潰して車の借金だけでも300万抱えた。
半身麻痺の親父は親父で我儘放題。
しかも入院中に発覚した借金が約100万。父側の親戚は知らん顔してる中 母親側の親戚が穴埋めに回ってくれた。
同じ半身麻痺の方々が一所懸命リハビリしながら仕事しているのを見ても無反応。
なかには 明らかに親父より大変な麻痺の人が働いているのにも関わらず 膝が痛いと嘘ばかりついてた。
不自由になっても人を嫌な気持ちにさせるのがなにより楽しいと働きづめの母親の前でいびきをかいて昼寝したり、
母の悪口を仲間で言い合って笑っていた。
父は4人兄弟の末子長男。
甘やかされて育ったらしく 少しでも大変だと途中で放り出すし、母にキツク言われると姉3人に泣きつくわで
母は嫁姑小姑問題で結婚したときからとんでもなく苦労させられていた。
退院したその日から その父親は毎日携帯もって遊びまわってるんだよ。コンビニでエロ本買ってくるし、
ウチじゃ小遣いくれないからって嘘言って叔母の家に行っては遊ぶ金を貰ってさ。 好きなお菓子を買い込んで一人で食べる。
母が塩分の取りすぎは体に良くないって言ってるのに。
歩行訓練で知り合った障害者向けの卓球クラブで仲間つくってさ 試合だ練習だと月に何回も旅行だからって
その度に金を持っていくんだよ。
まあ 健康なときから自分の趣味にしかお金を掛けなかった人だけどね。
443 名前:442[sage] 投稿日:04/12/05 22:33:41 ID:mQxCAy/M
母親はそれでも 我慢してたんだ。
「これもリハビリの一環だから仕方ないんだよ」って笑ってたんだよ。
朝8時に仕事して、5時に家に帰って、夕食の支度、夜7時からパートで11時までの超ハードワーク。
中3の受験生に家事させる無駄な時間は無いと言って、全部一人でやってた。
(私が家事をすると逆に怒られた)
家の事も金のことも心配するなって。
アンタは勉強頑張れ、それだけはお母さんでもどうすることも出来ないからって。
それより 学校の行事参加できなくてごめんねって、
ウチにお金があったら 好きな学校いかせてやれるのに、ごめんねって、
進学説明会も一人で行かせることになってごめんねって何度も謝ってきたんだ。
私にも 弟にも 誕生日もクリスマスも正月もなにも買ってやれなくてごめんねと。
兄には 父親が働いていたので好きなものを買ってやれたのに、
その金が無い今は母の収入だと食わせるだけで精一杯で 本当にごめんね…と。
そんなこと どうでもいいのに。
わたしのことより 真冬の深夜に自転車で夜道走るんだから気をつけてよと。
働き過ぎなんだから日曜ぐらい休んでよって そう言いながら弟と夜出勤する母親を見送った。
その頃 家に残された私が12才の弟と 二人分のご飯をレンジで温めながら
なんにもできない子供な自分たちが凄く悔しかったのを 覚えている。
445 名前:442[sage] 投稿日:04/12/05 23:26:05 ID:mQxCAy/M
あんな父、兄を反面教師として無我夢中で勉強して、就職したよ。
全部 母親と自分の為だ。
当然 仕送りは欠かさないし、ボーナスには多めに振り込んでる。
何かあると家に帰って 会って話をしたり、ご飯食べに連れ出したり、金を置いてくる。
本当は一緒に暮らしたいけど、私は 父親と折り合い悪くて、一緒に暮らせなくて
経済的な援助しかできないのが 申し訳ないけど…
父親に何ひとつ買ってもらえなかった弟が 嫁さん貰った。
明るくて しっかりしてて とにかくいい人なんだ。
気が強くて、トコトン話し合おうとする年上女房で 話を聞くとどうやら母に似ているらしい。
主導権を握られてるんだと苦笑いする弟は 言葉とは真逆にとんでもなく嬉しそうな顔をしていた。
そんな昔の話や婚約者の話を3人でしていた時、
ふと 「結婚するといわれても、親としてなんにもしてやれないよ」と落ち込む母に
私と弟が 声を合わせて言った。もう 二人ともいい大人なのに 半泣きだった。
「頼むから もう楽になってよ」
頼って欲しかったんだ。ずっと ずっと。
絶対 泣かなかった弟も目に一杯涙溜めてて
ああ、この子も同じこと考えてたんだなあと思ったら 我慢できなくてつい声を出して泣いてしまったよ。
だから
母親が『離婚を考えている』と言ってくれたとき 正直嬉しかった。
もう 子供のことなんて放っておいていいから 自分の人生だけちゃんと見てほしくて。
そのあとも昔の話をして、
笑って また少し泣いたよ。
でも ウチのおかーさん 馬鹿が付くほどお人よしだから、きっと離婚なんか出来ないんだろうな…
まあ いいや 弟と私で絶対守るからね
ちくしょー こんな女になりたいなあ。
ゴメン 文章力なくて…
ごめんなさい
吐き出させてください。
15のとき、だからもう15年以上たつかな 父親が倒れて半身麻痺になった。
自営業で祖父からの床屋やってる父親だよ。おかげで倒れたその日から収入0。
母親がかけてくれていた保険がたった一つあって それもあわせてなんとかパートで兄、中3の私、中1の弟を
誰一人我慢させることもなく学校にいかせてくれたよ。
実の娘が言うのもアレだけど、自慢の母親だ。 めちゃくちゃ怖いけどね。
でもさ、
甘ったれの兄はその後 数年で、シルビア2台潰して車の借金だけでも300万抱えた。
半身麻痺の親父は親父で我儘放題。
しかも入院中に発覚した借金が約100万。父側の親戚は知らん顔してる中 母親側の親戚が穴埋めに回ってくれた。
同じ半身麻痺の方々が一所懸命リハビリしながら仕事しているのを見ても無反応。
なかには 明らかに親父より大変な麻痺の人が働いているのにも関わらず 膝が痛いと嘘ばかりついてた。
不自由になっても人を嫌な気持ちにさせるのがなにより楽しいと働きづめの母親の前でいびきをかいて昼寝したり、
母の悪口を仲間で言い合って笑っていた。
父は4人兄弟の末子長男。
甘やかされて育ったらしく 少しでも大変だと途中で放り出すし、母にキツク言われると姉3人に泣きつくわで
母は嫁姑小姑問題で結婚したときからとんでもなく苦労させられていた。
退院したその日から その父親は毎日携帯もって遊びまわってるんだよ。コンビニでエロ本買ってくるし、
ウチじゃ小遣いくれないからって嘘言って叔母の家に行っては遊ぶ金を貰ってさ。 好きなお菓子を買い込んで一人で食べる。
母が塩分の取りすぎは体に良くないって言ってるのに。
歩行訓練で知り合った障害者向けの卓球クラブで仲間つくってさ 試合だ練習だと月に何回も旅行だからって
その度に金を持っていくんだよ。
まあ 健康なときから自分の趣味にしかお金を掛けなかった人だけどね。
443 名前:442[sage] 投稿日:04/12/05 22:33:41 ID:mQxCAy/M
母親はそれでも 我慢してたんだ。
「これもリハビリの一環だから仕方ないんだよ」って笑ってたんだよ。
朝8時に仕事して、5時に家に帰って、夕食の支度、夜7時からパートで11時までの超ハードワーク。
中3の受験生に家事させる無駄な時間は無いと言って、全部一人でやってた。
(私が家事をすると逆に怒られた)
家の事も金のことも心配するなって。
アンタは勉強頑張れ、それだけはお母さんでもどうすることも出来ないからって。
それより 学校の行事参加できなくてごめんねって、
ウチにお金があったら 好きな学校いかせてやれるのに、ごめんねって、
進学説明会も一人で行かせることになってごめんねって何度も謝ってきたんだ。
私にも 弟にも 誕生日もクリスマスも正月もなにも買ってやれなくてごめんねと。
兄には 父親が働いていたので好きなものを買ってやれたのに、
その金が無い今は母の収入だと食わせるだけで精一杯で 本当にごめんね…と。
そんなこと どうでもいいのに。
わたしのことより 真冬の深夜に自転車で夜道走るんだから気をつけてよと。
働き過ぎなんだから日曜ぐらい休んでよって そう言いながら弟と夜出勤する母親を見送った。
その頃 家に残された私が12才の弟と 二人分のご飯をレンジで温めながら
なんにもできない子供な自分たちが凄く悔しかったのを 覚えている。
445 名前:442[sage] 投稿日:04/12/05 23:26:05 ID:mQxCAy/M
あんな父、兄を反面教師として無我夢中で勉強して、就職したよ。
全部 母親と自分の為だ。
当然 仕送りは欠かさないし、ボーナスには多めに振り込んでる。
何かあると家に帰って 会って話をしたり、ご飯食べに連れ出したり、金を置いてくる。
本当は一緒に暮らしたいけど、私は 父親と折り合い悪くて、一緒に暮らせなくて
経済的な援助しかできないのが 申し訳ないけど…
父親に何ひとつ買ってもらえなかった弟が 嫁さん貰った。
明るくて しっかりしてて とにかくいい人なんだ。
気が強くて、トコトン話し合おうとする年上女房で 話を聞くとどうやら母に似ているらしい。
主導権を握られてるんだと苦笑いする弟は 言葉とは真逆にとんでもなく嬉しそうな顔をしていた。
そんな昔の話や婚約者の話を3人でしていた時、
ふと 「結婚するといわれても、親としてなんにもしてやれないよ」と落ち込む母に
私と弟が 声を合わせて言った。もう 二人ともいい大人なのに 半泣きだった。
「頼むから もう楽になってよ」
頼って欲しかったんだ。ずっと ずっと。
絶対 泣かなかった弟も目に一杯涙溜めてて
ああ、この子も同じこと考えてたんだなあと思ったら 我慢できなくてつい声を出して泣いてしまったよ。
だから
母親が『離婚を考えている』と言ってくれたとき 正直嬉しかった。
もう 子供のことなんて放っておいていいから 自分の人生だけちゃんと見てほしくて。
そのあとも昔の話をして、
笑って また少し泣いたよ。
でも ウチのおかーさん 馬鹿が付くほどお人よしだから、きっと離婚なんか出来ないんだろうな…
まあ いいや 弟と私で絶対守るからね
ちくしょー こんな女になりたいなあ。
ゴメン 文章力なくて…
「リンク」について、ちと考える。(補足)
2004年12月17日例外もある。
意識的に「報告しない」という選択。
ネットとはいえ、結局のところ人間関係が複雑に絡み合っている。
必ずしも「リンク報告すること」が親しい人への「礼儀」というわけではない。
意識的に「報告しない」という選択。
ネットとはいえ、結局のところ人間関係が複雑に絡み合っている。
必ずしも「リンク報告すること」が親しい人への「礼儀」というわけではない。
「リンク」について、ちと考える。(2/2)
2004年12月13日続き。
*****************************
ともかくリンクを許可するとか禁止するとか言っている連中は、相手が好意的かどうかで判断しているわけです。
相手が褒めてくれるならリンクを許そうという考え。
都合のいい批評以外は認めないということです。
ただ、難しいのはアマチュアであることでしょう。
金をもらっているプロを批判するのは当然だという考えは定着していると思いますが、ネットで表現活動している人は、基本的にアマチュアなので、「批判を受けるのは当然」という考えが浸透していません。
「褒めるのはいいが批判はするな」というのも、遊びでやっているなら当然かもしれません。
この「批判を受けるのは当然」という部分に関しては、素人であることを前提した場合、絶対的に正しいとは言えないです。
ネット上でのすべての表現がシビアな批評に晒されるべきだとは言えない。
しかし、私個人としては、他者に対して何らかの表現をする以上は、「批判を受けるのは当然」くらいの意識は持って然るべきと思いますが。
それに「批判を受けても当然」という意識を日頃から持っていれば、無防備な表現を慎むようになり、結果として批判されなくなると思います。
2001年4月
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
「リンク報告」っていうものは、
日常生活でいうところの事前連絡みたいなものかなと。
知り合いのお家へ行くから、一本連絡を入れるような感じの・・・。
ただ、赤の他人であれば、リンクの際に連絡は必要ないと思う。
例えばA地点からB地点へ行くのに、
わざわざその過程を他人に報告する人はいない。
ただ、A地点からB地点まで大人数でパレード(転送容量が大きい)したりするのであれば、事前連絡は必須と言いたいところ。
結局なにが言いたいのかというと、
インターネットという空間において、他人であればリンクの報告は入らない。
ただ、パレードしたいときは許可を得てほしい。
とはいっても、やぱり悪意のある人は止められない。
自分で防護作を講じるしかない。
どこの世界も、まずは礼儀なのかなぁ・・・
*****************************
ともかくリンクを許可するとか禁止するとか言っている連中は、相手が好意的かどうかで判断しているわけです。
相手が褒めてくれるならリンクを許そうという考え。
都合のいい批評以外は認めないということです。
ただ、難しいのはアマチュアであることでしょう。
金をもらっているプロを批判するのは当然だという考えは定着していると思いますが、ネットで表現活動している人は、基本的にアマチュアなので、「批判を受けるのは当然」という考えが浸透していません。
「褒めるのはいいが批判はするな」というのも、遊びでやっているなら当然かもしれません。
この「批判を受けるのは当然」という部分に関しては、素人であることを前提した場合、絶対的に正しいとは言えないです。
ネット上でのすべての表現がシビアな批評に晒されるべきだとは言えない。
しかし、私個人としては、他者に対して何らかの表現をする以上は、「批判を受けるのは当然」くらいの意識は持って然るべきと思いますが。
それに「批判を受けても当然」という意識を日頃から持っていれば、無防備な表現を慎むようになり、結果として批判されなくなると思います。
2001年4月
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「リンク報告」っていうものは、
日常生活でいうところの事前連絡みたいなものかなと。
知り合いのお家へ行くから、一本連絡を入れるような感じの・・・。
ただ、赤の他人であれば、リンクの際に連絡は必要ないと思う。
例えばA地点からB地点へ行くのに、
わざわざその過程を他人に報告する人はいない。
ただ、A地点からB地点まで大人数でパレード(転送容量が大きい)したりするのであれば、事前連絡は必須と言いたいところ。
結局なにが言いたいのかというと、
インターネットという空間において、他人であればリンクの報告は入らない。
ただ、パレードしたいときは許可を得てほしい。
とはいっても、やぱり悪意のある人は止められない。
自分で防護作を講じるしかない。
どこの世界も、まずは礼儀なのかなぁ・・・
「リンク」について、ちと考える。(1/2)
2004年12月13日以下は、もうなくなってしまったサイトのテキストをコピーしたものです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
「無断リンク禁止」とか言う奴ら
「無断リンク禁止」とか「トップページのみリンクフリー」とかいうのは恐らく日本独特の風潮である。少なくとも英文のサイトにおいて、リンクに関して禁止とか許可とか書いてあることはありません。
そして結論から言いますが、「無断リンク禁止」と書いても悪意のある人間には対抗できません。逆に、真に受けて遠慮するのはまともな人です。つまり、やや極端な言い方をすれば、まともな人はリンクを張ってくれず、悪意のある奴らのサイトにだけリンクが張られるという結果になります。
このインターネット社会は人為的なリンクによって成り立っている。それはGoogle以前のロボット型検索エンジンにおいて、検索しても検索してもカスみたいなサイトしか出てこないような状況があったのを思い起こせばわかることです。
そして面白いのは検索エンジンではあんまり出てこないサイトでも面白ければヒット数が多くなりうるということである。
検索エンジンで冷遇されていても面白ければ口コミで伝わっていくのがインターネットの素晴らしさの本質である。
そしてリンクをするというのは、その「口コミ」のために必要不可欠な手段です。
リンクを張るなという人間は、「口コミによる情報伝播」というネット社会の基本を否定しようとしているわけです。そしてそういう連中は、検索エンジンという大本営からのリンクで一方通行的に繋がれているという旧メディア的な在り方なら良いと思っているのかもしれません。
ちなみに言うと、最近人気急上昇中のGoogleは、このような「口コミ」を拾い集めた仕組みになっています。
多くの人はご存じだと思いますが、Googleでは簡単に言えば、たくさんのサイトからリンクされているサイトが上位に来るということです。
Googleのシステムを考えた人がどこまで深く考えてページランク方式を編み出したのかは知りませんが、ハイパーリンクが張られているということは「口コミ」が行われているということだから、それを集計するというのは本当に的を射ている。
現実社会だと口コミを集計することなど出来ませんが、ネットだとリンクという形で痕跡が残っているわけで。
リンクを張られたくないという理由は色々とあると思います。
たとえばUG系であれば技術情報の追求よりは「秘密基地ごっこ」の方に力点が置かれている。というか「秘密基地ごっこ」というのがUGの本質と言って過言ではないと思います。このような世界であれば、勝手にリンクされたり雑誌にURLを掲載されたりすれば、それは「秘密基地」の場所を公然とアナウンスされるようなもので・・・。
とりあえずそれは抜きにしてわりと一般的なサイトに関して言うと、リンクを張られたくないという人は、要するに、自分の手の届かないところで自分が話題になるということが不愉快なのだと思います。「リンクを張られること」ではなく、「勝手に話題にされること」がイヤなのだろうと思います。
つまり、仮にリンクを張られてそのリンク先でバカにされてたとします。その場合に問題となるのは、リンクを張ったことではなく、そのバカにしている文言のほうでしょう。
リンクを張るなと書くよりは、勝手に話題にするな、と書いたほうが正確なのではないでしょうか。
ちなみに、勝手に話題にして悪口言うのもたいして問題ないと思います。
「悪口は良くない」という単純なモラルが言論の世界において正しいとは思いません。
ポジティブな評価とネガティブな評価が交錯して我々の社会が成立している。
ネガティブな評価は必要悪であり、それもひとつの真実です。
ポジティブな評価しか存在しない社会というのはありません。
それに、悪口を言うというのは、ある程度リスクがあると思います。
あんまり揚げ足とりみたいなことに終始して、他人をバカ呼ばわりしていると、結局はバカを相手にして優越感を持つことしか出来ない、バカに依存しているバカだということが露呈する。そのあたりは見る人は見ています。
程度の低い悪口を繰り返していれば、その人自身が墓穴を掘ることになると思います。
現実社会においては、他人をバカにして、それを権力関係という形で固定し、正当性・正統性を得ることができます。
しかし、ネット上においては、権力関係が存在しないので、悪口を言っているほうが馬脚を現すという側面があります。
他人をバカにするレスばかり付けている人間は個々の局面では優位に立てますが、総合的に見れば、他人に尊敬されているわけではない。
そして恨みを買っていれば足をすくわれる可能性も高くなります。
つまり、長期的には悪口を言った側が必ずしも優位に立てるというわけではないので、そういう人間には自分の首を絞めさせておけば良いのです。
もう少し別の例で言うと、たとえば報道の世界において、「報道してもいいですか」といちいち許可を取っていたら、報道は成立しないと思います。というか、そういう条件なら、まともな報道は出来ないと思います。
評論も同じです。事前に相手の了承を得ないといけないというのであれば、評論は成立しません。
検索エンジンがただ単純に羅列された番組表だとすれば、リンクを張るというのは、その番組に対しての「評判を立てる」ことです。無断リンク禁止という人は、このような情報伝播をコントロールし、イヤな情報はカットしようという芸能プロみたいなことをやっているわけです。
ただ「酷評するな」というと言論の自由に抵触するから、「リンクを張るな」とか論点をずらして因縁を付けてくる。ヤクザ並みです。
しかしその一方で、自分のサイトを褒めて欲しいとは思ってるはずです。結局は「褒めるのはいいけど、悪口は書くな」というエゴでしょう。要するに「無断リンク禁止」という連中は、サイトを設立するのを公の言論としては捉えておらず、あくまで閉鎖性のある、自分を批判しないお仲間だけがいる状態でアクセスを増やしていきたいという願望を持っているわけです。「わああ、すごいですねえ」と言ってくれるお仲間だけが集まってきて、ヒット数と積み重ねていこうという考えなのです。
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「無断リンク禁止」とか言う奴ら
「無断リンク禁止」とか「トップページのみリンクフリー」とかいうのは恐らく日本独特の風潮である。少なくとも英文のサイトにおいて、リンクに関して禁止とか許可とか書いてあることはありません。
そして結論から言いますが、「無断リンク禁止」と書いても悪意のある人間には対抗できません。逆に、真に受けて遠慮するのはまともな人です。つまり、やや極端な言い方をすれば、まともな人はリンクを張ってくれず、悪意のある奴らのサイトにだけリンクが張られるという結果になります。
このインターネット社会は人為的なリンクによって成り立っている。それはGoogle以前のロボット型検索エンジンにおいて、検索しても検索してもカスみたいなサイトしか出てこないような状況があったのを思い起こせばわかることです。
そして面白いのは検索エンジンではあんまり出てこないサイトでも面白ければヒット数が多くなりうるということである。
検索エンジンで冷遇されていても面白ければ口コミで伝わっていくのがインターネットの素晴らしさの本質である。
そしてリンクをするというのは、その「口コミ」のために必要不可欠な手段です。
リンクを張るなという人間は、「口コミによる情報伝播」というネット社会の基本を否定しようとしているわけです。そしてそういう連中は、検索エンジンという大本営からのリンクで一方通行的に繋がれているという旧メディア的な在り方なら良いと思っているのかもしれません。
ちなみに言うと、最近人気急上昇中のGoogleは、このような「口コミ」を拾い集めた仕組みになっています。
多くの人はご存じだと思いますが、Googleでは簡単に言えば、たくさんのサイトからリンクされているサイトが上位に来るということです。
Googleのシステムを考えた人がどこまで深く考えてページランク方式を編み出したのかは知りませんが、ハイパーリンクが張られているということは「口コミ」が行われているということだから、それを集計するというのは本当に的を射ている。
現実社会だと口コミを集計することなど出来ませんが、ネットだとリンクという形で痕跡が残っているわけで。
リンクを張られたくないという理由は色々とあると思います。
たとえばUG系であれば技術情報の追求よりは「秘密基地ごっこ」の方に力点が置かれている。というか「秘密基地ごっこ」というのがUGの本質と言って過言ではないと思います。このような世界であれば、勝手にリンクされたり雑誌にURLを掲載されたりすれば、それは「秘密基地」の場所を公然とアナウンスされるようなもので・・・。
とりあえずそれは抜きにしてわりと一般的なサイトに関して言うと、リンクを張られたくないという人は、要するに、自分の手の届かないところで自分が話題になるということが不愉快なのだと思います。「リンクを張られること」ではなく、「勝手に話題にされること」がイヤなのだろうと思います。
つまり、仮にリンクを張られてそのリンク先でバカにされてたとします。その場合に問題となるのは、リンクを張ったことではなく、そのバカにしている文言のほうでしょう。
リンクを張るなと書くよりは、勝手に話題にするな、と書いたほうが正確なのではないでしょうか。
ちなみに、勝手に話題にして悪口言うのもたいして問題ないと思います。
「悪口は良くない」という単純なモラルが言論の世界において正しいとは思いません。
ポジティブな評価とネガティブな評価が交錯して我々の社会が成立している。
ネガティブな評価は必要悪であり、それもひとつの真実です。
ポジティブな評価しか存在しない社会というのはありません。
それに、悪口を言うというのは、ある程度リスクがあると思います。
あんまり揚げ足とりみたいなことに終始して、他人をバカ呼ばわりしていると、結局はバカを相手にして優越感を持つことしか出来ない、バカに依存しているバカだということが露呈する。そのあたりは見る人は見ています。
程度の低い悪口を繰り返していれば、その人自身が墓穴を掘ることになると思います。
現実社会においては、他人をバカにして、それを権力関係という形で固定し、正当性・正統性を得ることができます。
しかし、ネット上においては、権力関係が存在しないので、悪口を言っているほうが馬脚を現すという側面があります。
他人をバカにするレスばかり付けている人間は個々の局面では優位に立てますが、総合的に見れば、他人に尊敬されているわけではない。
そして恨みを買っていれば足をすくわれる可能性も高くなります。
つまり、長期的には悪口を言った側が必ずしも優位に立てるというわけではないので、そういう人間には自分の首を絞めさせておけば良いのです。
もう少し別の例で言うと、たとえば報道の世界において、「報道してもいいですか」といちいち許可を取っていたら、報道は成立しないと思います。というか、そういう条件なら、まともな報道は出来ないと思います。
評論も同じです。事前に相手の了承を得ないといけないというのであれば、評論は成立しません。
検索エンジンがただ単純に羅列された番組表だとすれば、リンクを張るというのは、その番組に対しての「評判を立てる」ことです。無断リンク禁止という人は、このような情報伝播をコントロールし、イヤな情報はカットしようという芸能プロみたいなことをやっているわけです。
ただ「酷評するな」というと言論の自由に抵触するから、「リンクを張るな」とか論点をずらして因縁を付けてくる。ヤクザ並みです。
しかしその一方で、自分のサイトを褒めて欲しいとは思ってるはずです。結局は「褒めるのはいいけど、悪口は書くな」というエゴでしょう。要するに「無断リンク禁止」という連中は、サイトを設立するのを公の言論としては捉えておらず、あくまで閉鎖性のある、自分を批判しないお仲間だけがいる状態でアクセスを増やしていきたいという願望を持っているわけです。「わああ、すごいですねえ」と言ってくれるお仲間だけが集まってきて、ヒット数と積み重ねていこうという考えなのです。
203 名前:癒されたい名無しさん[] 投稿日:04/11/21 21:51:33 ID:hCJPqqua
小学生のとき、少し知恵遅れのA君がいた。
足し算、引き算の計算や、会話のテンポが少し遅い。でも、絵が上手な子だった。
彼は、よく空の絵を描いた。抜けるような色遣いには、子供心に驚嘆した。
担任のN先生は算数の時間、解けないと分かっているのに答えをその子に聞く。
冷や汗をかきながら、指を使って、ええと・ええと・と答えを出そうとする姿を
周りの子供は笑う。N先生は答えが出るまで、しつこく何度も言わせた。
私はN先生が大嫌いだった。
クラスもいつしか代わり、私たちが小学6年生になる前、N先生は違う学校へ転任することに
なったので、全校集会で先生のお別れ会をやることになった。生徒代表で
お別れの言葉を言う人が必要になった。先生に一番世話をやかせたのだから、
A君が言え、と言い出したお馬鹿さんがいた。お別れ会で一人立たされて、どもる姿を
期待したのだ。
私は、A君の言葉を忘れない。
「ぼくを、普通の子と一緒に勉強させてくれて、ありがとうございました」
A君の感謝の言葉は10分以上にも及ぶ。水彩絵の具の色の使い方を教えて
くれたこと。放課後つきっきりでそろばんを勉強させてくれたこと。
その間、おしゃべりをする子供はいませんでした。N先生がぶるぶる震えながら、
嗚咽をくいしばる声が、体育館に響いただけでした。
昨日、デパートのポストカードなどに美しい水彩画と、A君のサインを発見いたしました。
N先生は今、僻地で小学校で校長先生をしております。
204 名前:癒されたい名無しさん[sage] 投稿日:04/11/21 23:28:25 ID:iGBe2rC3
>>203
泣いた
自分の兄妹に自閉症いるから
どう接するのが本人のためかってよく考える
N先生の思いは ちゃんとA君に伝わってたんだね
208 名前:癒されたい名無しさん[sage] 投稿日:04/11/22 15:43:38 ID:9BDf3ibf
>>207
僻地っていう響きには、懲罰的な雰囲気があるし、
算数の問題が解けないと分かっててしつこく聞くんだから、
先生がいじめてたのは間違いないと思います。
A君は何もわかってないから感謝できる、という部分は不確定だけど、
知恵遅れと書かれてるし、A君はいじめを認識できてなかったのかもしれない。
自閉症の人の心は、秩序のみから成っているような浮世離れした美しさがあることがあって、
天使のようだと言われることがある。(そして容姿も美しかったりする)
イワンのバカとか常不軽菩薩とか、そういう系の話なんじゃないかと。
210 名前:203[] 投稿日:04/11/22 20:05:39 ID:4gCUqqdr
蛇足かもしれませんが補足。
先生は教員が少なく、子供達が家から2時間ほどかけて登校しなければならないような
過疎地へ自ら望んで赴任されました。
N先生のお家には、毎年夏にA君から絵が届くそうです。A君はその後公立中高を経て、
美大に進学しました。お別れ会でのN先生の挨拶が思い浮かびます。
「A君の絵は、ユトリロの絵に似ているんですよ。みんなはもしかしたら、
見たこと無いかもしれない。ユトリロっていう、フランスの人でね、街や
風景をたくさん描いた人なんだけど。空が、綺麗なんだよ。
A君は、その才能の代わりに、他の持ち物がみんなと比べて少ない。
だけど、決して取り戻せない物ではないのです。そして、A君は
それを一生懸命自分のものにしようしています。これは、簡単なことじゃありません!」
A君は、空を描いた絵を送るそうです。その空はN先生が作り方を教えた、
美しいエメラルドグリーンだそうです。
小学生のとき、少し知恵遅れのA君がいた。
足し算、引き算の計算や、会話のテンポが少し遅い。でも、絵が上手な子だった。
彼は、よく空の絵を描いた。抜けるような色遣いには、子供心に驚嘆した。
担任のN先生は算数の時間、解けないと分かっているのに答えをその子に聞く。
冷や汗をかきながら、指を使って、ええと・ええと・と答えを出そうとする姿を
周りの子供は笑う。N先生は答えが出るまで、しつこく何度も言わせた。
私はN先生が大嫌いだった。
クラスもいつしか代わり、私たちが小学6年生になる前、N先生は違う学校へ転任することに
なったので、全校集会で先生のお別れ会をやることになった。生徒代表で
お別れの言葉を言う人が必要になった。先生に一番世話をやかせたのだから、
A君が言え、と言い出したお馬鹿さんがいた。お別れ会で一人立たされて、どもる姿を
期待したのだ。
私は、A君の言葉を忘れない。
「ぼくを、普通の子と一緒に勉強させてくれて、ありがとうございました」
A君の感謝の言葉は10分以上にも及ぶ。水彩絵の具の色の使い方を教えて
くれたこと。放課後つきっきりでそろばんを勉強させてくれたこと。
その間、おしゃべりをする子供はいませんでした。N先生がぶるぶる震えながら、
嗚咽をくいしばる声が、体育館に響いただけでした。
昨日、デパートのポストカードなどに美しい水彩画と、A君のサインを発見いたしました。
N先生は今、僻地で小学校で校長先生をしております。
204 名前:癒されたい名無しさん[sage] 投稿日:04/11/21 23:28:25 ID:iGBe2rC3
>>203
泣いた
自分の兄妹に自閉症いるから
どう接するのが本人のためかってよく考える
N先生の思いは ちゃんとA君に伝わってたんだね
208 名前:癒されたい名無しさん[sage] 投稿日:04/11/22 15:43:38 ID:9BDf3ibf
>>207
僻地っていう響きには、懲罰的な雰囲気があるし、
算数の問題が解けないと分かっててしつこく聞くんだから、
先生がいじめてたのは間違いないと思います。
A君は何もわかってないから感謝できる、という部分は不確定だけど、
知恵遅れと書かれてるし、A君はいじめを認識できてなかったのかもしれない。
自閉症の人の心は、秩序のみから成っているような浮世離れした美しさがあることがあって、
天使のようだと言われることがある。(そして容姿も美しかったりする)
イワンのバカとか常不軽菩薩とか、そういう系の話なんじゃないかと。
210 名前:203[] 投稿日:04/11/22 20:05:39 ID:4gCUqqdr
蛇足かもしれませんが補足。
先生は教員が少なく、子供達が家から2時間ほどかけて登校しなければならないような
過疎地へ自ら望んで赴任されました。
N先生のお家には、毎年夏にA君から絵が届くそうです。A君はその後公立中高を経て、
美大に進学しました。お別れ会でのN先生の挨拶が思い浮かびます。
「A君の絵は、ユトリロの絵に似ているんですよ。みんなはもしかしたら、
見たこと無いかもしれない。ユトリロっていう、フランスの人でね、街や
風景をたくさん描いた人なんだけど。空が、綺麗なんだよ。
A君は、その才能の代わりに、他の持ち物がみんなと比べて少ない。
だけど、決して取り戻せない物ではないのです。そして、A君は
それを一生懸命自分のものにしようしています。これは、簡単なことじゃありません!」
A君は、空を描いた絵を送るそうです。その空はN先生が作り方を教えた、
美しいエメラルドグリーンだそうです。
去年の3月の末くらいだったと思いますが、いつもの様に彼女に会い
に行きましたが、彼女は眠っていました。病室に響く規則正しい電子音
に私も睡魔を感じ、つい1時間程眠り込んでしまいました。目が覚める
ととっくに面会時間は過ぎており、あわてて病室を後にしました。
すると、エレベータの前のベンチに誰かが座っていました。別に気に
せずエレベータのボタンを押そうとした私に、その人が話しかけてきま
した。
「話がある。」
その人は彼女の父親でした。
「何でしょうか?」
「君はどうしてここにいる?」
「あの娘のお見舞いに来ているのです。」
「そんな事を聞いているのではない。」
「と言いますと?」
「会社を辞めて、フリーターになってまで、どうして帰ってきたんだ?」
「ご存じでしたか。」
「どうしてそこまで出来るんだ?」
「どうして?好きな相手の側にいるのに、何か理由が必要ですか?」
「・・・・。」
「私の事を認めてくれとは言いません。ですから、せめてご迷惑をお
かけしない様にと・・・。」
「分かった。今度からは私たちに気兼ねすることなく、あの子に顔を
見せてやってくれ。」
「え?」
「それではこれで失礼する。」
たしかこんな会話だったと思います。
それからは毎日彼女に会えるようになりました。彼女の母親も面会時
間の終わる1時間前に病院を出て、私が彼女と会える時間には席をはず
してくれるようになりました。
彼女の話によると、父親が母親にそうするように言ったそうです。そ
して、私とのことは彼女の好きにするようにとも言ったそうです。
でも、それから1週間ほどのことでした。
夜自分の部屋で寝ていると、彼女の父親から電話がかかってきました。
低く落ち着いた声で、今から会いに来てやってくれ、そのかわり覚悟
して来てくれと、彼女の父親ははっきりとした口調でそう言いました。
私は、大急ぎで彼女の病室に行きました。
看護婦や医師に囲まれたベッドの中で、うつろな目をした彼女が居ま
した。薬の影響ですっかり髪の毛は抜け落ち、頬はこけ、青白い手を医
師が掴み、脈を取っている様子でした。
夕方彼女と会った時、確かに衰弱は進んでいましたが、それでも話が
できる程度の元気があったはずでした。その変わり果てた彼女の様子に、
私は身動きも出来ませんでした。
一歩下がった所で、目を真っ赤に腫らして立っている彼女の両親が居
ました。私を見た彼女の父親は、黙って母親を促しました。彼女の母親
は私の手を取ると、この子の手を握ってあげて、と言いながら、彼女の
やせ細った手を取り私に握らせました。
そのとき、うつろだった彼女の目に一瞬光が見えた気がしました。
そして、彼女はゆっくり口を動かしました。ほんの僅かでしたが、はっ
きり動かしていました。私は急いで彼女の口元に耳をあてがいました。
微かでしたが、彼女は、ごめんなさい、と繰り返して言っていました。
私は涙が止まらず、そして何もいえず、ただその子の手を握り返し、
その子の言葉を聞き逃すまいと必死で彼女の口に耳を当てていました。
とにかく、頭が真っ白で、どうして良いのか分からず、ただ手を握り
返す事しかできませんでした。
突然私は肩をたたかれ、我に返りました。振り向くと彼女の父親が私
の肩を掴んでいました。そして彼女を真っ赤に腫れた目で見つめていま
した。私はその手を取り、彼女の手を握らせようとしましたが、彼女の
父親は首を横に振り、君が握ってやってくれ、私はここで良い、と言い
ました。
それからどれくらいの時間がたったのか、私には分かりません。しか
し、それまで僅かにごめんなさいとつぶやき続けていた彼女が、一言、
別の言葉をつぶやきました。
「○○ちゃん(私の名前)ありがとね。すごくしあわせだったよ。」
確かにそう私には聞こえました。
それが彼女の最後の言葉でした。
私はあわてて彼女の両親の手を取り、彼女の手を握らせました。気丈
だったご両親でしたが、彼女の手を握った途端、涙を流しました。
それからどのくらいの時間がたったのか分かりませんでしたが、突然
それまで不規則に響いていた電子音が、連続音に変わりました。
医師が彼女の目に懐中電灯を当て、ゆっくり、ご臨終です、と言いま
した。その言葉を聞いて、彼女の母親が声を上げて泣き始めました。気
がつくと私も、そして彼女の父親も声を上げて泣いていました。握りし
めていた彼女の手が、ゆっくり確実に冷たくなっていくのを感じました。
次の日、彼女の父親から喪服を渡されました。そして、二通の手紙を
手渡され、今夜は君もあの子のそばにいてやってくれと言われました。
私はひとまず部屋に戻りました。部屋に入った私はしばらく力無く部
屋に座り込んでいました。ふと手に握らされた手紙を思い出し、二通の
手紙を見ました。一通は彼女の父親からでした。中を見ると一枚の便せ
んにしっかりとした字で、すまなかった、そしてありがとう、その二言
が書いてありました。もう一通は彼女の字で、私に当てた手紙でした。
中には、私と出会った頃から彼女が入院するまでの事が、びっしり書き
込まれていました。そしてその内容一つ一つに、自分がどれだけ幸せだっ
たか、どれだけ救われたかが書かれていました。その手紙を読みながら、
私はまた声を上げて泣きました。その手紙の最後には、こう書かれてい
ました。
私が居なくなっても、○○ちゃんは元気でいてね。私のすごくすごく
大切な人だから、沢山幸せになってね。新しい彼女見つけなきゃだめだ
よ。私のこと好きなら、○○ちゃん、絶対に幸せになってね。約束。
私はシャワーを浴びながら、声を上げて泣きました。いつまでもシャ
ワーを浴びながら泣き続けていました。
シャワーを出た私は、彼女の父親から受け取った喪服を着ました。
なぜか私にぴったりのサイズでした。
まだ涙は乾いていませんでしたが、喪服に着替えた私は、彼女の家に
行きました。彼女の家には少しずつ親類や知り合いの方々が集まって来
ている様でした。私は彼女の両親に連れられ、彼女の安置されている部
屋に通され、彼女のすぐ側に席をあてがっていただけました。
彼女の両親は、親類縁者の方々に私を彼女と付き合っていた青年だと
紹介されました。
通夜と葬式にも出席させてもらえました。そして常に私があてがって
もらえた席は、彼女に一番近い席でした。彼女の両親よりも近い席でし
た。私はその席を辞退しようとしましたが、彼女の父親に諫められまし
た。君がその席に座らなくてどうする。私たちに気遣うならその席に座っ
てくれと。
今は彼女の父親に紹介された会社で働いています。いったんは断りま
したが、彼女の父親と直接関係のある会社ではない事、そして仕事が気
に入らなければ自由に辞めて良いと説得され、その好意を受けることに
しました。
彼女の思い出はまだ鮮明に心に残っています。
長々と失礼しました。
に行きましたが、彼女は眠っていました。病室に響く規則正しい電子音
に私も睡魔を感じ、つい1時間程眠り込んでしまいました。目が覚める
ととっくに面会時間は過ぎており、あわてて病室を後にしました。
すると、エレベータの前のベンチに誰かが座っていました。別に気に
せずエレベータのボタンを押そうとした私に、その人が話しかけてきま
した。
「話がある。」
その人は彼女の父親でした。
「何でしょうか?」
「君はどうしてここにいる?」
「あの娘のお見舞いに来ているのです。」
「そんな事を聞いているのではない。」
「と言いますと?」
「会社を辞めて、フリーターになってまで、どうして帰ってきたんだ?」
「ご存じでしたか。」
「どうしてそこまで出来るんだ?」
「どうして?好きな相手の側にいるのに、何か理由が必要ですか?」
「・・・・。」
「私の事を認めてくれとは言いません。ですから、せめてご迷惑をお
かけしない様にと・・・。」
「分かった。今度からは私たちに気兼ねすることなく、あの子に顔を
見せてやってくれ。」
「え?」
「それではこれで失礼する。」
たしかこんな会話だったと思います。
それからは毎日彼女に会えるようになりました。彼女の母親も面会時
間の終わる1時間前に病院を出て、私が彼女と会える時間には席をはず
してくれるようになりました。
彼女の話によると、父親が母親にそうするように言ったそうです。そ
して、私とのことは彼女の好きにするようにとも言ったそうです。
でも、それから1週間ほどのことでした。
夜自分の部屋で寝ていると、彼女の父親から電話がかかってきました。
低く落ち着いた声で、今から会いに来てやってくれ、そのかわり覚悟
して来てくれと、彼女の父親ははっきりとした口調でそう言いました。
私は、大急ぎで彼女の病室に行きました。
看護婦や医師に囲まれたベッドの中で、うつろな目をした彼女が居ま
した。薬の影響ですっかり髪の毛は抜け落ち、頬はこけ、青白い手を医
師が掴み、脈を取っている様子でした。
夕方彼女と会った時、確かに衰弱は進んでいましたが、それでも話が
できる程度の元気があったはずでした。その変わり果てた彼女の様子に、
私は身動きも出来ませんでした。
一歩下がった所で、目を真っ赤に腫らして立っている彼女の両親が居
ました。私を見た彼女の父親は、黙って母親を促しました。彼女の母親
は私の手を取ると、この子の手を握ってあげて、と言いながら、彼女の
やせ細った手を取り私に握らせました。
そのとき、うつろだった彼女の目に一瞬光が見えた気がしました。
そして、彼女はゆっくり口を動かしました。ほんの僅かでしたが、はっ
きり動かしていました。私は急いで彼女の口元に耳をあてがいました。
微かでしたが、彼女は、ごめんなさい、と繰り返して言っていました。
私は涙が止まらず、そして何もいえず、ただその子の手を握り返し、
その子の言葉を聞き逃すまいと必死で彼女の口に耳を当てていました。
とにかく、頭が真っ白で、どうして良いのか分からず、ただ手を握り
返す事しかできませんでした。
突然私は肩をたたかれ、我に返りました。振り向くと彼女の父親が私
の肩を掴んでいました。そして彼女を真っ赤に腫れた目で見つめていま
した。私はその手を取り、彼女の手を握らせようとしましたが、彼女の
父親は首を横に振り、君が握ってやってくれ、私はここで良い、と言い
ました。
それからどれくらいの時間がたったのか、私には分かりません。しか
し、それまで僅かにごめんなさいとつぶやき続けていた彼女が、一言、
別の言葉をつぶやきました。
「○○ちゃん(私の名前)ありがとね。すごくしあわせだったよ。」
確かにそう私には聞こえました。
それが彼女の最後の言葉でした。
私はあわてて彼女の両親の手を取り、彼女の手を握らせました。気丈
だったご両親でしたが、彼女の手を握った途端、涙を流しました。
それからどのくらいの時間がたったのか分かりませんでしたが、突然
それまで不規則に響いていた電子音が、連続音に変わりました。
医師が彼女の目に懐中電灯を当て、ゆっくり、ご臨終です、と言いま
した。その言葉を聞いて、彼女の母親が声を上げて泣き始めました。気
がつくと私も、そして彼女の父親も声を上げて泣いていました。握りし
めていた彼女の手が、ゆっくり確実に冷たくなっていくのを感じました。
次の日、彼女の父親から喪服を渡されました。そして、二通の手紙を
手渡され、今夜は君もあの子のそばにいてやってくれと言われました。
私はひとまず部屋に戻りました。部屋に入った私はしばらく力無く部
屋に座り込んでいました。ふと手に握らされた手紙を思い出し、二通の
手紙を見ました。一通は彼女の父親からでした。中を見ると一枚の便せ
んにしっかりとした字で、すまなかった、そしてありがとう、その二言
が書いてありました。もう一通は彼女の字で、私に当てた手紙でした。
中には、私と出会った頃から彼女が入院するまでの事が、びっしり書き
込まれていました。そしてその内容一つ一つに、自分がどれだけ幸せだっ
たか、どれだけ救われたかが書かれていました。その手紙を読みながら、
私はまた声を上げて泣きました。その手紙の最後には、こう書かれてい
ました。
私が居なくなっても、○○ちゃんは元気でいてね。私のすごくすごく
大切な人だから、沢山幸せになってね。新しい彼女見つけなきゃだめだ
よ。私のこと好きなら、○○ちゃん、絶対に幸せになってね。約束。
私はシャワーを浴びながら、声を上げて泣きました。いつまでもシャ
ワーを浴びながら泣き続けていました。
シャワーを出た私は、彼女の父親から受け取った喪服を着ました。
なぜか私にぴったりのサイズでした。
まだ涙は乾いていませんでしたが、喪服に着替えた私は、彼女の家に
行きました。彼女の家には少しずつ親類や知り合いの方々が集まって来
ている様でした。私は彼女の両親に連れられ、彼女の安置されている部
屋に通され、彼女のすぐ側に席をあてがっていただけました。
彼女の両親は、親類縁者の方々に私を彼女と付き合っていた青年だと
紹介されました。
通夜と葬式にも出席させてもらえました。そして常に私があてがって
もらえた席は、彼女に一番近い席でした。彼女の両親よりも近い席でし
た。私はその席を辞退しようとしましたが、彼女の父親に諫められまし
た。君がその席に座らなくてどうする。私たちに気遣うならその席に座っ
てくれと。
今は彼女の父親に紹介された会社で働いています。いったんは断りま
したが、彼女の父親と直接関係のある会社ではない事、そして仕事が気
に入らなければ自由に辞めて良いと説得され、その好意を受けることに
しました。
彼女の思い出はまだ鮮明に心に残っています。
長々と失礼しました。
695 名前: 名無し物書き@推敲中? 03/10/02 18:59
まだ1年ほど前の事なのですが・・・。
彼女がこの世を去りました。病死です。
その彼女と出会ったのは7年程前でした。
相手はその頃大学1年生でした。
持病があり、あと5年生きられるかどうか?と寂しく笑っていました。
それを承知で私たちはつきあい始めました。
つきあい始めたのは良いのですが、私の仕事の関係で遠距離(関西−東
北)になってしまいました。それでも、彼女は笑いながら逢えるついで
に旅行も出来ると言い、月に1度のペースで会いに来てくれました。
相手は実家に住んでいて、私は貧乏サラリーマン。それを察して、相手
が私の所に会いに来てくれていたのです。
最初の3年は、その様な感じで普段は寂しいながらも、お互い幸せに
過ごすことが出来ました。
そして相手は卒業。しかしこの就職難の折り、東北から関西に就職す
るのは無理でした。そこで彼女は地元で就職し、お金を貯めて関西に来
ると言いました。私も彼女を迎えるため、必死で貯金を始めました。
相手が就職して1年が過ぎたころ、相手の遊びに来る頻度が、それま
で毎月だったのが、だんだん2ヶ月3ヶ月と間延びし始めました。
毎晩電話で話をしていましたが、丁度1年半ごろ前から、たまに彼女
が電話に出ないことがありました。そのころから、ふと私に嫌な予感が
わき起こっていました。
私は両親がいません。物心ついた時には、父親は蒸発。そして私が高
校の時に母親が病死しました。そのため、彼女の両親には嫌われていま
した。彼女はそれなりに良いところのお嬢様だったので、どこの馬の骨
とも分からない私は、最初から相手にされていませんでした。
ある日、そんな彼女の父親から私の元に電話がありました。
彼女の持病が重くなり、来週から入院することになる。だからもう電
話はかけてくるな、もうほっておいてくれとだけ言われ、一方的に電話
を切られました。
私は来るべき時が来たと思い、しばらく悩みましたが、思い切って上
司に掛け合ってみました。東北に転勤させてくれと。答えはNOでした。
しばらく会社と話し合いをしましたが、結局私は会社を退職し、故郷に
戻りました。荷物も売れる物は売り、出来る限り身軽にして彼女が入院
した病院の近くに、小さな部屋を借りました。離職票が出る前に契約し
たので、なんとか部屋を借りることが出来ました。
そして、彼女に会いに行きました。
彼女はかなり驚いていました。そしてひたすら「ごめんなさい」と謝っ
ていました。私は会社をリストラされたから故郷に戻ってきたと言い、
新しい勤め先も近くだから、仕事が終わったら会いに来るよ、とだけ伝
えました。
昼間は彼女の母親が居るので、私は病室に入れてもらえませんでした。
そして週末には父親も面会に来るので、もちろん病室に近寄ることも許
してもらえませんでした。ですので昼間や週末はコンビニでバイトして、
平日の夕方彼女の母親や父親が帰った後、残された僅かな面会時間に会
いに行くという日々を送っていました。
そうする間にも、彼女は目に見えて衰弱して行きました。
柔らかかった手は骨が浮き出て、頬はこけ、足はすっかり衰えてしま
い、ベッドから起きあがるのも難しいくらいでした。
彼女は私が会いに行くとよく泣いていました。元気じゃなくてごめん
なさい。ちゃんと両親に認めてもらえなくて、ごめんなさいと。私は、
そんな事気にしたことはありませんでした。ほとんど食欲がなく、もっ
ぱら点滴と、管で栄養をとる彼女でしたが、時々大好物のリンゴを持っ
て行き、すり下ろして絞って作ったリンゴジュースをなめさせたりしま
した。そのときに見せる笑顔で私は十分幸せでした。
私に出来ることは、そうやって彼女を元気づけることだけでした。
短い面会時間だったので、あまり話も出来ず、ただ彼女の手を握り、
帰り際にキスするくらいしか出来ませんでしたが、私は十分幸せでした。
まだ1年ほど前の事なのですが・・・。
彼女がこの世を去りました。病死です。
その彼女と出会ったのは7年程前でした。
相手はその頃大学1年生でした。
持病があり、あと5年生きられるかどうか?と寂しく笑っていました。
それを承知で私たちはつきあい始めました。
つきあい始めたのは良いのですが、私の仕事の関係で遠距離(関西−東
北)になってしまいました。それでも、彼女は笑いながら逢えるついで
に旅行も出来ると言い、月に1度のペースで会いに来てくれました。
相手は実家に住んでいて、私は貧乏サラリーマン。それを察して、相手
が私の所に会いに来てくれていたのです。
最初の3年は、その様な感じで普段は寂しいながらも、お互い幸せに
過ごすことが出来ました。
そして相手は卒業。しかしこの就職難の折り、東北から関西に就職す
るのは無理でした。そこで彼女は地元で就職し、お金を貯めて関西に来
ると言いました。私も彼女を迎えるため、必死で貯金を始めました。
相手が就職して1年が過ぎたころ、相手の遊びに来る頻度が、それま
で毎月だったのが、だんだん2ヶ月3ヶ月と間延びし始めました。
毎晩電話で話をしていましたが、丁度1年半ごろ前から、たまに彼女
が電話に出ないことがありました。そのころから、ふと私に嫌な予感が
わき起こっていました。
私は両親がいません。物心ついた時には、父親は蒸発。そして私が高
校の時に母親が病死しました。そのため、彼女の両親には嫌われていま
した。彼女はそれなりに良いところのお嬢様だったので、どこの馬の骨
とも分からない私は、最初から相手にされていませんでした。
ある日、そんな彼女の父親から私の元に電話がありました。
彼女の持病が重くなり、来週から入院することになる。だからもう電
話はかけてくるな、もうほっておいてくれとだけ言われ、一方的に電話
を切られました。
私は来るべき時が来たと思い、しばらく悩みましたが、思い切って上
司に掛け合ってみました。東北に転勤させてくれと。答えはNOでした。
しばらく会社と話し合いをしましたが、結局私は会社を退職し、故郷に
戻りました。荷物も売れる物は売り、出来る限り身軽にして彼女が入院
した病院の近くに、小さな部屋を借りました。離職票が出る前に契約し
たので、なんとか部屋を借りることが出来ました。
そして、彼女に会いに行きました。
彼女はかなり驚いていました。そしてひたすら「ごめんなさい」と謝っ
ていました。私は会社をリストラされたから故郷に戻ってきたと言い、
新しい勤め先も近くだから、仕事が終わったら会いに来るよ、とだけ伝
えました。
昼間は彼女の母親が居るので、私は病室に入れてもらえませんでした。
そして週末には父親も面会に来るので、もちろん病室に近寄ることも許
してもらえませんでした。ですので昼間や週末はコンビニでバイトして、
平日の夕方彼女の母親や父親が帰った後、残された僅かな面会時間に会
いに行くという日々を送っていました。
そうする間にも、彼女は目に見えて衰弱して行きました。
柔らかかった手は骨が浮き出て、頬はこけ、足はすっかり衰えてしま
い、ベッドから起きあがるのも難しいくらいでした。
彼女は私が会いに行くとよく泣いていました。元気じゃなくてごめん
なさい。ちゃんと両親に認めてもらえなくて、ごめんなさいと。私は、
そんな事気にしたことはありませんでした。ほとんど食欲がなく、もっ
ぱら点滴と、管で栄養をとる彼女でしたが、時々大好物のリンゴを持っ
て行き、すり下ろして絞って作ったリンゴジュースをなめさせたりしま
した。そのときに見せる笑顔で私は十分幸せでした。
私に出来ることは、そうやって彼女を元気づけることだけでした。
短い面会時間だったので、あまり話も出来ず、ただ彼女の手を握り、
帰り際にキスするくらいしか出来ませんでしたが、私は十分幸せでした。
115 :名無しさん@明日があるさ :04/09/25 17:54:04
今年初め、新車を購入するため、6年間乗ったマーチを手放すことになった時、
小1だった長男は声をあげて泣きました。長男は妹と一緒にマーチの中に
「マーチへ。いままでいろんなところにつれていってくれてありがとう。
これからもげんきでね」
と書いた手紙をしのばせ、マーチとお別れしました。
それから9ヶ月余りが過ぎた先日、郵便受けに「マーチより」と書かれた
長男と妹あての手紙が届きました。その手紙には
今マーチは新しいオーナーの赤ちゃんを乗せて毎日元気に走っていること、
その赤ちゃんが手紙をくれた2人のように優しい子になってほしいということが
書かれていました。
熱いものがこみ上げました。長男は涙がこぼれ落ちないように必死に天井を
見上げていました。
今年初め、新車を購入するため、6年間乗ったマーチを手放すことになった時、
小1だった長男は声をあげて泣きました。長男は妹と一緒にマーチの中に
「マーチへ。いままでいろんなところにつれていってくれてありがとう。
これからもげんきでね」
と書いた手紙をしのばせ、マーチとお別れしました。
それから9ヶ月余りが過ぎた先日、郵便受けに「マーチより」と書かれた
長男と妹あての手紙が届きました。その手紙には
今マーチは新しいオーナーの赤ちゃんを乗せて毎日元気に走っていること、
その赤ちゃんが手紙をくれた2人のように優しい子になってほしいということが
書かれていました。
熱いものがこみ上げました。長男は涙がこぼれ落ちないように必死に天井を
見上げていました。
357 :非通知さん :2003/02/01(土) 00:08 ID:iIeCcXh8
妹が亡くなって2年の歳月が流れました。妹からの最後のメールを見て命の尊さ、居なくなって残された者の悲しみがどれほど苦痛か・・・
白血病に侵され、親、兄弟でも骨髄移植は不適合でドナーも見つからず、12年間苦しむだけで短い生涯を終えた・・・14才でした・・・。
妹が2才半のとき、微熱が続き、病院に行ったときには「白血病」と診断・・・その日から母は毎日病院と家を往復する日々が続き、
大型連休で家族そろってレジャーに行く日なんてありません。妹の面会が我が家の大型連休の消化日課でした・・・「妹がいなければ遊びに行けたのに!!」
当時は妹に憎しみさえ抱いたほどです。でも、両親が妹ばかり世話し、愛情いっぱいあげてる姿に嫉妬したんでしょうね・・・。
その妹が亡くなって2年。両親は抜け殻がとれたような静けさです・・・私もですが・・・。
99年の12月中旬、突然妹が「携帯電話がほしい」と、言い出しました。私がメールばかりしていたので欲しくなったんでしょうね・・・
もちろん大急ぎで買いに行きました。そしてイブの夜に携帯電話を渡し、一緒にメールの送信方法も教えてやりました。
そして、私が家に帰る頃には正午を過ぎてクリスマスを迎えた寒い夜になっていました。寝ようと思ったら妹からのメールです。
「さっきはイブだったけど、今日はクリスマスだよ。迷惑ばかりかけてごめんね。おにいちゃん。ありがとう」・・・これを見た途端母が息を切らして階段を上がり、
「病院に行くから支度しなさい」…さっき別れたばかりなのにまた行くの?なんで?と思いました。
病院に行くと、さっきまで元気だった妹が顔に白いクロスをかけられて亡くなっていました。あとで看護婦さんに聞いてわかったことなんですが、
携帯電話を強く握り締めて離すのにたいへんだったと・・・それを聞いて涙がいっぱいあふれました・・・。
妹の携帯電話は解約しましたが、2年経ったいまでも遺影の横にそっと置いてあります。
妹は、私にだけはきちんとお別れして逝きました。天国でも携帯電話が使えると良いなぁ・・・
妹が亡くなって2年の歳月が流れました。妹からの最後のメールを見て命の尊さ、居なくなって残された者の悲しみがどれほど苦痛か・・・
白血病に侵され、親、兄弟でも骨髄移植は不適合でドナーも見つからず、12年間苦しむだけで短い生涯を終えた・・・14才でした・・・。
妹が2才半のとき、微熱が続き、病院に行ったときには「白血病」と診断・・・その日から母は毎日病院と家を往復する日々が続き、
大型連休で家族そろってレジャーに行く日なんてありません。妹の面会が我が家の大型連休の消化日課でした・・・「妹がいなければ遊びに行けたのに!!」
当時は妹に憎しみさえ抱いたほどです。でも、両親が妹ばかり世話し、愛情いっぱいあげてる姿に嫉妬したんでしょうね・・・。
その妹が亡くなって2年。両親は抜け殻がとれたような静けさです・・・私もですが・・・。
99年の12月中旬、突然妹が「携帯電話がほしい」と、言い出しました。私がメールばかりしていたので欲しくなったんでしょうね・・・
もちろん大急ぎで買いに行きました。そしてイブの夜に携帯電話を渡し、一緒にメールの送信方法も教えてやりました。
そして、私が家に帰る頃には正午を過ぎてクリスマスを迎えた寒い夜になっていました。寝ようと思ったら妹からのメールです。
「さっきはイブだったけど、今日はクリスマスだよ。迷惑ばかりかけてごめんね。おにいちゃん。ありがとう」・・・これを見た途端母が息を切らして階段を上がり、
「病院に行くから支度しなさい」…さっき別れたばかりなのにまた行くの?なんで?と思いました。
病院に行くと、さっきまで元気だった妹が顔に白いクロスをかけられて亡くなっていました。あとで看護婦さんに聞いてわかったことなんですが、
携帯電話を強く握り締めて離すのにたいへんだったと・・・それを聞いて涙がいっぱいあふれました・・・。
妹の携帯電話は解約しましたが、2年経ったいまでも遺影の横にそっと置いてあります。
妹は、私にだけはきちんとお別れして逝きました。天国でも携帯電話が使えると良いなぁ・・・
411 名前:大人の名無しさん [sage] 投稿日:04/12/03 17:15:11 ID:7xMxNLo3
がんばるという意味・・・
親友からの電話。
「足が痛いから入院するよ。たいしたことはない、一週間くらいだって」
笑いながらの連絡だった。
「そっか、がんばれよ」、まあ日常的な会話。その時たいして気には止めなかった。
一週間後、まだ入院してるとのこと。
エロ本を土産に病院を訪ねた。
病室に入るとそこには右足の無い親友がいた。
いっきに視野が狭まり、親友が見えなくなった。
その日の夜、久しぶりに自転車で一緒に通った高校まで走ってみた。
16年前と景色はさほど変わりない。
田んぼ道、涙が溢れて止まらなかった。
412 名前:大人の名無しさん[sage] 投稿日:04/12/03 17:22:41 ID:7xMxNLo3
長々とゴメソ
もうその親友はいない。
癌だった。足を切断しても全身への転移は止められなかったらしい。
でも親友は死ぬ直前まで生きることをあきらめてはいなかった。
死ぬ前の日、
「足が痛いんだ。退院した後困るからさすってくれよ」
「今まで親に迷惑かけたからさ、退院したら家の事業継ごうと思うんだ。
帳簿だけでもつけれるようになりたいから簿記教えてくれよ。」
がんばってた。すごくがんばってた。
その日から自分自身、がんばるって言葉を使わなくなった、というか使えなくなった。
親友に失礼で・・
何十年後か親友に会うことがあるだろう。
「いい人生送れたかい?」と聞かれたら、
「うん、がんばったよ」と言えるような人生を送りたい。
がんばるという意味・・・
親友からの電話。
「足が痛いから入院するよ。たいしたことはない、一週間くらいだって」
笑いながらの連絡だった。
「そっか、がんばれよ」、まあ日常的な会話。その時たいして気には止めなかった。
一週間後、まだ入院してるとのこと。
エロ本を土産に病院を訪ねた。
病室に入るとそこには右足の無い親友がいた。
いっきに視野が狭まり、親友が見えなくなった。
その日の夜、久しぶりに自転車で一緒に通った高校まで走ってみた。
16年前と景色はさほど変わりない。
田んぼ道、涙が溢れて止まらなかった。
412 名前:大人の名無しさん[sage] 投稿日:04/12/03 17:22:41 ID:7xMxNLo3
長々とゴメソ
もうその親友はいない。
癌だった。足を切断しても全身への転移は止められなかったらしい。
でも親友は死ぬ直前まで生きることをあきらめてはいなかった。
死ぬ前の日、
「足が痛いんだ。退院した後困るからさすってくれよ」
「今まで親に迷惑かけたからさ、退院したら家の事業継ごうと思うんだ。
帳簿だけでもつけれるようになりたいから簿記教えてくれよ。」
がんばってた。すごくがんばってた。
その日から自分自身、がんばるって言葉を使わなくなった、というか使えなくなった。
親友に失礼で・・
何十年後か親友に会うことがあるだろう。
「いい人生送れたかい?」と聞かれたら、
「うん、がんばったよ」と言えるような人生を送りたい。
わかりやすく書くと・・・?
2004年12月8日 恋愛・比較対象にならないため、対比する行為に傍若無人さを感じた。
・まともに食料が行き渡らない環境の人たちに対して、
グルメを語っているような感じ。
表現しにくいけど、そんな感じかなぁ・・・。
文章って、ほんと難しい。
・まともに食料が行き渡らない環境の人たちに対して、
グルメを語っているような感じ。
表現しにくいけど、そんな感じかなぁ・・・。
文章って、ほんと難しい。