偶然、星座のページを見ていたら、

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【 恋愛運 】
ずっと夢見ていた恋に近づけそうです。理想のイメージに似た異性とめぐりあえたり、意中の相手とロマンチックな時間を過ごすことができるかもしれません。イマジネーションを豊かに広げることが大切。甘い気分で1日が過ごせることでしょう。
http://fortune.yahoo.co.jp/12astro/20090711/cancer.html


占いってのは言葉の使い方一つですな~って思うのでした。
実は 「占い」 とは 「情報収集のテクニック」 なところもあるわけですが。
先日、とある場所でふと思う。

男という生き物は実に単純な生き物なんだなーということ。

男に限られる話かどうかは微妙なんですが、
一応オイラは男なので男目線でということで。
・・・というより、あくまでオイラ個人限定の話かもですが、
それは受け手が判断していただくということで。

何気ない会話の中で、
“あなたと話していると楽しいね~嬉しいね~”
という雰囲気を感じると、
「もっとサービスしなくっちゃ!」と思ってしまうもんなんだなと。

人は自然に相手から笑顔を引き出そうとする本能みたいなものが
備わっているのかもしれないな、と。

悲しい顔なんざ誰も見たくはないわけで、
相手が悲しそうな表情をすると、なんとか笑わせてやろうと思うのは、
やっぱり自然なことなんじゃないかなぁと思うわけです。

となれば、男は基本的に相手を笑わせようとするピエロ的な役割を演じやすいのかなぁと。
この逆はどうなのかといえば、男尊女卑的な思考傾向があるオイラで言えば、
「男は相手に弱みを見せちゃアカン!」と思っているので、
基本的にそういうパターンにはなりにくいのではと。

そんなわけで、所詮、男は女性に従属する生き物、
はたまたそれを “楽しむ”生き物なのかなあとか思うのでありました。

オイラの場合は基本「好きになれば決着つけるまで行動する!」です。
でもね、今回はもーれつプッシュするのを避けることにしました。

理由はいろいろあります。
ま、僕にとっても彼女にとっても、今はタイミングが悪すぎるってこと。
どっちに転んでも迷惑がかかる・・・そーいうタイミングなんです。

今回は縁がなかった、とゆーわけで。




★NAO様↓
うーん、なにがどうということのほどではないんですが、
さるきっかけで、さることをしたんです。
それは頼まれたのでやっただけなんですが、
ちょっとプラス余計なおせっかいなような(?)ことをしたんですな。

で、相手がそれに対するリアクションってしてくるのかなぁと。
ちょっと興味が沸いてしまいまして。
どちらにしろこういう状況を楽しんでいるんですな、きっと(笑)。

カテゴリを「日常」に入れるかどうか迷ったんだけど、
ちょっと意識してしまったので「恋愛」にしました。

まったく、人間って奴はやっかいです。
動物ならありえへんです。


★NAO さんへ↓

さてはて。

2009年2月28日 恋愛
「恋愛」ってのも何気に定義がよくわからん。
というか、考えたこともないなぁ・・・。自然にそうなるからか?
まあ定義を求めるほうがおかしいのかしらねえ・・・。

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れん-あい【恋愛】
(love の訳語)男女が互いに相手をこいしたうこと。
またその感情。こい。

こい【恋】
(1)一緒に生活できない人や亡くなった人に強くひかれて、切なく思うこと。また、そのこころ。特に、男女間の思慕の情。恋慕。恋愛。

し-ぼ【思慕】
恋しく、なつかしく思うこと。

れん-ぼ【恋慕】
こいしたうこと。

した・う【慕・う】
(1)(恋しく思い、また離れがたく思って)あとを追って行く。
(2)会いたく思う。恋しく思う。なつかしく思う。
(3)理想的な状態・人物などに対してそのようになりたいと願い望む。

※ CASIO EX-word 広辞苑 第五版 岩波書店より引用
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うーん、なるほど、「互いに」ってところがミソだね。

なんとなくそう思ったので整理してみた次第。
 20 代の後半にもなると、「そろそろ結婚とか意識したほうがいいんかなぁ・・・」とか、なんだかんだいって自然に焦ってくるもの。少なくともオイラの場合はそんな感じでありました。

 そこでたまさか感じの良いような異性がいたりすれば、そりゃー気にならないわけがないわけです。なんとなくオイラがそう感じていたものの、こちらからはノーアクションで通していました。で、ある日、相手側から声をかけられ・・・という流れだったのだけど、いつのまにやら 「気持ちには答えられないけど、友達としては別れたくない、気軽に話し合える友達でいて欲しい」みたいなことになってしまったという・・・。オイラは覚悟を決めないお付き合いほど魅力のないものはないと考えるタイプなので、完全にお別れさせていただきました。

 結局のところ、相手が年上だったせいもあり、態度をハッキリさせなきゃ相手に悪いと妙に責任を感じてしまったせいで、こういう流れになったわけだけど、今思えば、早いうちにそういうリアクションを取って良かったと思います。 

 ・・・とまあそんなこんなで 20 代は「焦り」の世代だったような気がします。恋愛に限らず、人生全般的に。そのおかげでいろんな仕事を経験することができ、たくさんの人たちに出会えたことは、なにより幸せでした。

 20 代はとにかく経験を積んだ時期でありました。20 代後半で偶然にも人生をかける価値のある仕事に出会い、30 代でその世界に入れたことは、偶然ながらもベストなタイミングなんじゃないかと感じています。

 さて、30 代としてのこれからですが、結局のところ、目の前のことをがむしゃらにやっていくような生き方しかできないんだろうなぁと。もちろん、40 代になったらこうやって、50 代はこんな感じで・・・という目標はあります。でもま、それらすべては 30 代に作り上げた土台で決まっていくような気がします。

 仕事に関してはそんな感じですが、恋愛については・・・まあ予定を立てようにも、そんなことできるわけもなく(笑)。

 ただ、独身のオイラからみれば、既婚者の方々は独身者よりもはるかに 「人生の深さ」 を感じつつ生活されていることでしょう。独身者の感じる日常と、既婚者でかつ子供をもつ人が感じる日常というスケールは、天と地ほどの 「感じ方の差」 があると思います。

 そういった意味で、既婚者で子供を持つ方に対して、それだけでもう尊敬に値するとオイラ自身は感じています。独身者の人生はいわば上っ面の人生です。既婚者で子供を育てている人たちは、人生というものの奥深くに触れ、その中でどうあるべきかを日々選択しつつ生きているはずです。おそらく上述のことはあまりに日常すぎて、そこまで感じないと思う人もいるでしょう。そこが重要で、そこまで感じていないところに 「妙」 があるのだと思います。

 結婚する人生と結婚しない人生、どちらかを選べるとなれば、オイラなら結婚する人生を選ぶと思います。理由はうまく話せませんが、それこそ 「なんとなく」 の境地だと思うのです。

 「なんとなく」 とは決していい加減な気持ちではなく、これまで生きてきた人生経験上から得た総合的な価値判断基準の 「ものさし」 なのではないかと。

 生きていると、うまく言葉にできないことって、たっくさんあると思います。でも、「なんとなくこうだな」 という感覚は誰にでもあるのではないでしょうか。もしそれが悪いような感覚であれば、それを回避する、直す努力をすべきでしょう。それが良いような感覚であれば、それらを効果的に続けるアイディアを出し実行し続けることです。

 30 代のこれから。とにかく、カッコつけずにがむしゃらにバカになる!
 なんとなくですが、これがベストのような気がします。せっかくの人生なのだから、残りカスの出ないように、真っ白になるぐらいの気持ちじゃなきゃね。
さあ、やろう!

行動

2005年6月26日 恋愛
人の気持ちというものは行動こそに表れるものだと感じています。
これは僕の経験則です。

意識してみれば、ちょっとした一言や仕草で
相手の感情が伝わってきたりします。

僕はわりかし単純で、うれしかったら即行動します。
うれしくなかったら、早めに“嬉しくないサイン”を出します。

返事は未だ来ないのですが、
このことからも相手の気持ちがなんとなくですが、
感じるものがあります。

感受性が強すぎるのか、それとも単純なのか、
綺麗な月を見ただけで喜んでしまうようなウサギ年のオイラは、
とてもむなしい気持ちになったりします。

かといって、恋愛に振り回されて日常をほったらかしに
してしまうような甘ったれた年齢でもないので、
やるべきことはやっています。
逆に気合が入りまくったりします。

こういうのは、時間が解決してくれるものかなとも。

人生、いろいろあるよ。うん。

待ち

2005年6月12日 恋愛
「とても優しく誠実で、素敵な人」などと言われても、
最終的に「友達で・・・」と言われてしまっては、
そんなものまったく意味が無いわけでして・・・。

内面的には問題ないみたいなので、
ほかに原因として思いつくのは
容姿、経済面ぐらいしかない・・・ような気がする。

外面で言えば、彼女より背は低いし、年下だし、
どこをどうとってもカッコイイ部類には入らないだろう。
経済面、いわゆる甲斐性の面でいえば、
会社を辞めて学校へ行ってることを想像してもらえばよいだろう。

僕のスタンスとして“男は稼いでなんぼ”という考えが根底にあるので、
現状では言い訳はいっさいできない。
僕という人間を評価した上で、今、将来についての評価すればいいと思う。
男を見る面で、稼ぎをひとつの指標にするのは当然のことだから。

人にはいろんな「好きになる」があるのだから。
ここであれこれ書いているのは、なんとなくだけど、
書けば落ち着くことができるからだ。
モヤモヤ感は頭の中で整理できていないせい。
文字にしておこしてみると、スッキリするんだな。

何が起ころうが時間が止まるわけでもなく、
日常は進んでいく。

落ち込み続けるのは性に合わないし、
なにより落ち込み続けるのが許されるような
甘ったれた年齢でもない。
なので、今の僕はいたってポジティブなのです。

ダメージが全く無いわけではないんだけど、
こういったことは時間が解決してくれることだとも思う。

人を好きになるのはすばらしいこと。
僕は人間が人間であることに嬉しさを感じることができる、
そういう感覚が好きだ。

映画や漫画や小説や音楽や、
そして日常における嬉しいこと悲しいこと楽しいこと辛いこと、
これらはすべて、みーんな人間であるからこそ感じることができる。

「悲しいことや辛いことなんて、感じたいと思っている人なんていないよ」

確かにそうだろう。
でも、人生それらを感じずに生きられるだろうか?
僕が思うに、それは無理だと思う。
生きていれば、必ず誰もが経験するのだ。
だったら、僕はそれらを肯定的に捉えたい。

人間のすばらしいところは、
それらをすべて乗り越えて生きていくたくましさにある。

人間として生きていくこと。
僕は、感謝したい。

心の整理。

2005年6月11日 恋愛
返信を書く。2回目の手紙。
理由について、明確に示されていないのは、
なんとも心地が悪いから、それを尋ねるために書いた。
にしても、今の今まではっきりと示しされていないのも
ちと違和感を感じる。
僕が逆の立場なら、間違いなく理由を書いているだろうから。

惹かれた主な理由は

・礼儀正しかったこと
・一生懸命に仕事をしていたこと

この2点だった。

「友達宣言」をされたのにもかかわらず、
それを認めようとしなかった自分がいたのだろうか。
「喪失感を感じる」という言葉が僕を引き止めた。
僕を必要としてくれているのなら、
彼女が希望する「友達として」付き合うのもいいだろうと。

ある日、彼女に「ふられている」ということを強く実感する。
「一生懸命」(これは礼儀にも関わる)を感じなくなったのだ。
ささいなことかもしれない。
僕が過敏すぎるのかもしれない。

人を好きになることや、愛することというのは、
行動することだと思う。
行動を見れば、それは一目瞭然なことなんだ。

友達付き合いも、似たようなものなんじゃないかなあと思う。
仕事でもそうだ。

人付き合いって「気持ちのぶつかり合い」なんだなあと、
今更ながらに思う。
偶然、ごっつく久しぶりに
カラオケへ行く機会に恵まれました。
ブームの“星のラブレター”を歌いました。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
“ 星のラブレター” 作詞:宮沢和史

庭に出て 月あかりで あたたかい夜に
君に書いたラブレターを 読み直してみるよ
我ながら良く書けた文だ 三枚も書いた
コオロギが便せんに止まった 失礼なやつだ

君に会いに行くよ 君に会いに行くよ
愛してます 好きにしてよ 君に会いに行くよ

朝日通りは 夕飯時 いつもの野良犬たちが
僕の知らない 君の話 時々聞かせてくれた
年をとって生命がつきて 星のかけらになっても
昨日聴かせた僕の歌 町中に流れてる

君に会いに行くよ 君に会いに行くよ
愛してます 好きにしてよ 君に会いに行くよ

あんなに楽しかった夏休みだったのに
君のママとも仲良くなったのに
秋になって 冬を越えて サヨナラと言った
何十年 指折りかぞえて自転車に乗って また

君に会いに行くよ 君に会いに行くよ
愛してます 好きにしてよ 君に会いに行くよ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
Fin.
手紙を書き、そして送った。

告白というものは、方向性を決定してしまうものだと思う。
受け入れてくれれば付き合いは続くし、
受け入れてもらえなければ付き合いは続かない。

それだけに、
告白する側には“ある種の勝算”があるからこそ、
告白するのだと思う。

独身者同士の友達関係って、ありえないものなのかもね。
恋愛って、難しいとは思わない。
どんなかたちであろうと、それが恋愛だから。

好きだからこそ、会えない、会いたくない。

恋愛感情を持っている方にとって、友達のままで付き合うということは、
たまらなく辛いことなのだと、今更ながらに感じている。

あの時、僕は現実を受け入れられなかっただけなんじゃないだろうかと。

伝えなければ伝わらない。

だから、伝えます。

年上

2005年3月30日 恋愛
去年の今頃は告白していなかったので
結構必死に(相手にはさりげなく?)アピールしてたっけ。

当日にはお気に入りのケーキ(結構遠いところにある)を
驚かせようと思って黙って届け、
後日、誕生日祝いという名目でメシを食べに行ったときに、
軽いプレゼントをしたり。

いろいろあって、彼女ってわけではない人なのだけど、
今でも、お互いに外でメシ食ったり、お互いの家でメシ食ったりしてて。

オイラ的には完全に割り切っちゃってて(たぶん相手も)、
気分転換に会っているような(一方的ではなく)、
そんな関係。
お互いの生き方を認め合う親友みたいな感じ。

僕はこれから3年間、学校に通わなくてはならない身。
目指した道を進む。
人生の集大成として。

理屈じゃない。
理屈で考えていたら、今の状態はない。

自然に。
無理に動かすのは、なんだか間違っているような気がする。



よし、これでいい。
うん、やっぱりそうだ。
なんとなく書き始めたのだけど、たまに書くのも悪くない。
今日はメシカノ提案の「クリスマス会」。
お互い忙しい身なため、本当のクリスマスの日は避けて
ちょっと早めにやりましょう、と。

カノジョが作り用意した料理を食べながら、
僕がプレゼントで買ってきたCDを聞きながら、
相も変わらず二人でたらふく食べて、いーっぱい話して。

カノジョが喜ぶためには何をすればいいのか、
僕の基本方針。

どーなるかは、時が解決してくれる。
今はそういう時期。
・比較対象にならないため、対比する行為に傍若無人さを感じた。

・まともに食料が行き渡らない環境の人たちに対して、
 グルメを語っているような感じ。

表現しにくいけど、そんな感じかなぁ・・・。
文章って、ほんと難しい。
世間では“もう”話題がシフトしている感がある「天皇家のお嬢さんの結婚ニュース」。
これに関して、ずーっと頭の中でモヤモヤしていることがある。

それはその天皇家のお嬢さんのことではない。
僕が「何かおかしい・・・」と感じたのは、
“そのニュースに絡めて”自身の結婚観を展開している人たちのことだ。

TVではまず放送されないタブーである内容、それが天皇家の「婚前交渉について」。
ウェブにさらされている女性(と思われる)の日記書きさんのサイトは、
このニュースが放送されるやいなや、こぞってこのニュースと絡め、自説の結婚観を展開していた。

それらの意見は、おしなべて、

 「・・・・・あのお方は男性経験はおありなんでしょうか。」

から始まり、

 「私だったら、肌を合わせたことのない人と結婚するなんて、絶対にヤダ。」

という主旨で終わるのものだった。

彼女たちは、おそらく、あまり深くは考えず“素”でコメントしているのだろう。
それゆえに、余計に怖いというか憤りみたいなものを感じてしまう。

自身の結婚観を語ること、これはなんら問題ない。どう思おうが語ろうが自由だろう。
僕がものすごく違和感を感じるのは
“天皇家のお嬢さんの結婚のニュースに絡めて”というところだ。

僕の基本的な考えなのだけど、人がどんなことを思おうが語ろうが、それは個人の勝手であり、それに関しては僕自身がコメントすることはない。正直どうでもいいと思っている。

でも、他者との絡みがあってある出来事について語る場合、
それはその他者(相手)の立場を踏まえて意見しているということだから、
当然、相手に対する「礼儀」というものが発生してくるわけだ。
もっとわかりやすく表現すると相手に対する「思いやり」の度合いがその会話なり文章なりに現れてくる。

他人の出来事に対して自説を語る。

一般人同士でさえ、誰しも違う異なった環境で育ってきている。
そこでさえ、微妙な価値観などの差があるのに、
今回は大きく生活習慣の異なった環境で育った天皇家のお嬢さんに対して、
自説を語っている行為が、僕にはなんだかあさましく思えてならない。
わざわざ“天皇家のお嬢さんの結婚のニュース”などと絡めなくても良いのに・・・と思ってしまった。

これが今回のモヤモヤ感・・・。

とりあえず、今日はここまで。

恋愛観

2004年11月14日 恋愛
気持ちが落ち着いたら書きます。
人それぞれだとは思うのだけど。

一緒に外食したり、もしくはお家(うち)にご飯食べにおじゃましたり。
そしていつもお互いの近況を話している。
日帰りだけど、ちょっと遠出したことも、
そして映画も観たりしたことも。

異性ではあるのだけど、なんだか同姓の友達のような感覚のような、
そんな関係のような。

なんだか焦りたくない気持ち。
なんだかそんな。

考えても答えは出ないような。
だったら。