無料で使える Diary Note の仕様に関するいち感想。

自動縮小ならいいのだけど 「自動縮小 & 切り取り」 という感じかな?
お気に入りの写真を載せて遊ぶことがすっごくやりにくくて不便です。
乗せたいところが自動で切り取られてしまう・・・。
仕方がないので、以前育ててたワイルドストリベリーの写真を載せていますが・・・
つまら~ん!(笑)

こう、なんというか、この写真仕様ってユーザに人気あるのだろうか。
利点がイマイチわからんです。

メモ(仕事人)

2005年1月31日 メモ
213 :人が死なないやつを :04/12/22 23:56:30

ある阪神の選手が引退を決意
引退試合には一打席だけ立たせてもらえることになった
愛する娘に「パパ頑張ってくるよ」と言うと
まだ幼いその娘は「パパはどうしていつもホームラン打たないの? 最後にパパのホームランが見たいよ」
と言った
その選手は所謂二番打者タイプでバントや流し打ちなど繋ぐバッティングを期待されていた選手だった
だからその娘は、ほとんど父親のホームランを見たことがなかった
それに気付いたその選手は「分かった。じゃあ最後はパパ、ホームラン打ってくるよ」
と娘に言い、試合に臨んだ

そして試合中、ランナー一塁の場面でその選手に打席が回ってきた
いつもより大きくバットを構える
相手投手も、ど真ん中にボールを投げる


そしてその選手は…………バットを構え、送りバントをした


ランナーは二塁に進み、犠打の記録がつく
その選手は笑顔でヘルメットを掲げ、甲子園球場の声援に応えた
最後の最後まで自分のスタイルを貫いたその姿に、ファンも割れんばかりの拍手を返した

そして試合終了後、娘のもとによると、
その娘は約束を守らなかった父親に文句を言うこともなく
涙を溜めながら、笑顔でたった一言

「パパ、お疲れ様」
と、父親を労った
お父さん。
あれから六年だな。
俺は大学で毎日研究をしてる。
今年、学会で賞をもらった。
去年、結婚した。
大学に入ってから仕送りしてくれたお金で、婚約指輪を買ってやった。
お父さんからだぞって言って渡した。
かずはお母さんの仕送りと俺の給料でなんとか大学に行かせてやれた。
四年で卒業して就職して、おととしお嫁に行った。
キャリアウーマンとかいって、かっこつけて歩いてるくせに、少し太った。
幸せそうだけど、たまに夫婦げんかをして泣きながら電話をしてくることがある。
お母さんは、一人で店を頑張っている。
一緒に住もうと言ってもまだ頑張るって、言うことをさっぱり聞いてくれない。
お父さんへの恩返しはもうできないけどさ、
お母さんと妹といつか生まれてくる俺の子供に精一杯のことをしてあげるつもりでいる。
お父さんの描いた将来に少しは近づいているのかなぁ。

俺が生まれてからお父さんが酒もたばこもやめたって葬式で聞いた。
酒は飲めないんだと思ってた。
そんなことを聞いてから今まで、酒を一滴も飲まなかった。
昨日、法要が終わってから、
高校生の頃お父さんがくれた千円札で瓶ビールとチューハイを買ってきた。
千円札を出すとき涙がでたよ。
違うお札にしようかと思ったけど、やっぱり使ってみた。
うちの奥さんと、お父さんの話をしながら酒を飲もうかと思ったんだ。
うちの奥さんは結構酒が飲めるらしい。
二人で初めて飲む酒はきっと楽しい酒だ。
さっきメールが来て、夕食はカレーだって。
俺が昔作ったのよりずっとうまいカレーをお父さんと一緒に食べたい。
カレーを食べながら話したいことがまだまだたくさん、たくさんあるんだ。
238 :素敵な旦那様:04/12/27 14:30:15

昨日、親父の七回忌だった。

うちは本当に貧乏でさ、商売やってたんだけど、
つぶれてシャッターがおりてる店がほとんどの寂れた商店街の隅っこに店があって、
それでも「店で待っていてもお客は来ない」って
両親は毎日毎日朝から晩まで注文取りに走り回ってた。

俺は五歳下の妹と二人兄弟で、小学生の頃から
いつも二人で夕食を作って遅くまで両親の帰りを待ってた。
小学生の料理なんてうまいはずはないけれど、
親父は「お前たちのカレーはすごくいい味だ」ってほめてくれた。

明るい家族だったから、貧乏でも楽しかった。
休みの日には、大きな鍋とインスタントラーメンを持って海に行って、
たき火をしてラーメンを煮て食べた。
おいしかったなぁ。

小学校中学校と放課後友達と遊んだ記憶はほとんどない。
妹の面倒見なくちゃいけなかったし、家の手伝いもあったし。

高校受験の時にね、「こんな暮らしをしててもお前は貧乏から抜け出せない。
家のことはいいからちゃんと大学出て、自分でやりたいことを見つけろ」って
親父が言ってくれて、鹿児島の全寮制の高校に行かせてくれたんだ。

バイトはできなかったけど、運良く奨学金がもらえて仕送りなしで高校に通えた。
たまに帰省すると、その度にくしゃくしゃの千円札を
母親に隠れて何枚か渡してくれて、「少しで悪いな」って。
そんな金使えないよな。
今でもしまってある。
35枚。

馬鹿なりに一生懸命勉強して東京の国立大に受かった。
ホントは受かっただけで満足だった。
でも、親父すごく喜んでさ
「商売がんばってるから大学行ったら仕送りしてやれるぞ」って。

大学に入ってからはバイトバイトの毎日で、何とか授業料と生活費は自分で稼いだ。
大学でも寮に入れたから家賃は楽だった。
親からの仕送りは毎月三万円。
もったいなくて使えずに郵便局の仕送り口座にお金が貯まっていって、
「好きに使っていいんだぞ」なんて手紙が来たりして。
そう言われると、苦労して送ってくれてるお金を
そのままにしておくのも悪い気がして、
毎月郵便局から引き出して、銀行の口座に移してた。

卒業間近になって、大学院を勧めてくれる先生がいたけど、
早く就職して親に仕送りしてあげたいと思ってたから、断った。
そのころ、たまたま東京の親戚が亡くなって、東京に両親が来た。
何を思ったか研究室にまで押しかけて来ちゃってさ、
先生に御礼なんか言ったりして。
そうしたら先生が余計なこと言い出しちゃって、
大学院を親に勧めるのよ。
親父またまた喜んじゃって
「なんで断ったりするんだ」なんて叱られちゃったりして。
結局、大学院にも進ませてくれた。
同じ大学の大学院に行くときも入学金って必要なんだよね。
毎月の三万円積み立てから25万円出した。
初めて仕送りを使った。

大学院に行ったら、研究でで食っていけるかななんて思い始めて
、学振の特別研究員に受かった(月に20万も給料が出る)こともあって、
修士終わってから博士課程に進むことにした。
博士になったら学生なのに仕送りができる!って内心かなりうれしかった。

修士論文を提出した日。
初めて母親から研究室に電話。
「どうしたの研究室に電話なんかして。修士になったよ。次は博士だぞ。」
「あのね、お父さん、ここ何日かずっと調子悪いって言ってて、
今日胃カメラ飲んだの。写真見せてもらったら、ものすごい状態だった。」って。

末期の胃ガン。
背中の方に向かって進行していたから、
食欲も衰えずに気づかないことがあるらしい。
目の前真っ暗。
頭の中真っ白。
「そんなわけないだろっ」って大声で叫んでしまって、
同じ研究室の学生に「どうしたんですか」って。

医者に電話したら「一日でも早く手術しないと」って話で、
友達にお父さんが医学部の教授ってやつがいて、
そいつに頼んで「消化器ガンなら日本一」って先生を紹介してもらった。

三日後に入院して七日後に手術。
胃全摘、脾臓全摘、膵臓半分摘出の大手術。
手術の前の晩、親父と二人で人気のない病院のロビーで、手術のこと話した。
地元の病院で撮った胃カメラの写真を見て、自分の病気はよく知っていた。
どんな状態かも知っていた。
でも「悪いところ取って、ようやく第二の人生だな」と笑って言っていた。
明るい親父に家族はどれだけ救われたか。
手術が終わって、先生に摘出した臓器を見せてもらった。
金属製のバットに山盛り。
こんなに取っても人間は生きられるのかって思った。
先生は「取れるところはすべて取りましたよ。
後は抗ガン剤で転移巣をやっつけます。」と言っていた。

でも、手術後少ししてからずーっと背中に激しい痛み。
抗ガン剤も効果はいまひとつ。
俺と妹と母親と、親戚の家から毎日病院に通って交代で夜通し付きっきりの看病。
妹は50kgから30kgに激やせ。

もう痛みが我慢できないと言うので、
真っ赤なモルヒネ錠剤を経口で投与して痛みを抑えてた。
モルヒネが効いているうちはなんとか普通の感じ。
車いすに乗っけて、中庭に連れて行ったりもした。
俺、親父と二人っきりでいたことなんてないからなんとなく気まずくて、
車いすを景色のいいところに押していって、少し離れたところでぼーっと座ってた。
「近くにいてくれないか」と言われて近くに行ったら、
子供の頃手をつないでもらった時とは
比べものにならないくらい細くなった腕を膝掛けから出して、
しわしわになってしまった手でぎゅっと手を握られた。
二人で声も出さずに泣いた。

ある日「五年後の話をしてくれないか」とベッドの父に聞かれて、
「俺は29だからたぶん大学で研究してるな。
妹は24か。結婚して子供もできてるかもよ。
お母さんは、うーん、まだ店がんばってるんじゃない?
お父さんは、退院しても胃がないから、毎日グルメ番組見て、
あれがうまそうだ、とか、これ買ってこい、とかわがまま言ってるかもよ」
なんて答えてた。
そんなに長く生きられるなんて俺も親父も思っていなかったくせに。
五年後がどんなに遠い未来なのかも分かっていたくせに。

結局、親父は死んでしまった。
手術から三十三日。
病院で胃カメラ飲んでから四十日。
62歳の誕生日から十日。
夕方研究室から病院に行ったら、もう息を引き取ってた。
「実験してるだろうから、呼ばなくていいぞ」って言ってたらしい。
最後に何かを言い残したらしい。
でも、俺は親父がなんて言ったのか知らない。
悲しすぎて知りたくない。

あんな大手術をさせて、殺してしまったのは俺だって、ずーっと思ってる。
俺が手術をすることを決めて、
家族もみんな俺の言うことに納得してくれて、

でもその結果、親父をあっという間に殺してしまった。
悔やんでも悔やみきれない。
ごめんな、お父さん。本当にごめんな。

葬式。
親戚が「まだ学校に行かせてるのか」なんて、
何にも知らないくせに母親に言ったりしてた。

「この子はお父さんのできなかったこと頑張ってるんだから、
私一人でも最後まで学校に通わせるつもりです。
この子はお父さんの夢なんです。」

って、言ってくれた。
ドアの向こうでそれを聞いていた。
親は有り難いと思った。
もう泣かないつもりが、止めどなくあふれた。
346 名前: 名無し物書き@推敲中? 03/03/17 19:06

中学生の時に付き合っていた女の子が亡くなって、
ちょうど15年目を迎えました。
私も彼女もまだ幼かったんでしょう。
恋愛というよりは二人でじゃれ合っているという
言葉の方が正しかったかも知れません。

ちょうど卒業式の前の日でした。
周りの皆には付き合っているなんて恥ずかしくて言っていませんでした。
って言うより何を以って付き合っているかなんて良く分からなかった。
けれども私は毎日学校の帰り道でクラスメートが
通りそうもない道で待ち合わせをしている日々に充実感さえ感じていた。
お互い進学する学校は全然違うのだけれども他愛もない夢話に毎日夢中になっていた。
そうしてしばらくしてから「交換日記」をしたいと彼女から切り出してきた。
僕はすぐにOKの返事をした。とにかく彼女と何かしてみたかっただけですけどね
そうして卒業式が近づいてきて日記の中に「卒業式に言いたいことがある。
でも恥ずかしいから言葉じゃなく日記に書いて渡しますのでその場で読んでね」と書いてありました
私は舞い上がって卒業式の日を待ち遠しく思っていました。
今にして思えば何か変な期待をしていた筈です。
当日私と彼女はクラスが違うため、
式が終わった後でも校庭では探し出す事が出来ませんでしたし
後輩ともしゃべりたかったのでさして気にもしませんでした

さて探そう..

そう思っていたら突然校内放送が流れて教員が全員職員室に呼ばれました。
「なんかあったのか?」ぐらいにしか思わなかったのですが、
いろいろ噂話を聞いていると誰か交通事故に遭ったらしいとの事でした。
その時に本当に心臓をわしずかみにされたような嫌な気持ちで
少し気分が悪くなったのを今でも忘れられません。

予感は当たっていました。
彼女は式が終わってから自宅に戻り「日記」をもって
私に渡すために自転車に乗って中学校まで来る途中に
大きい道路でバランスを崩し倒れてしまったところに
運悪く都営バスがきてしまいはねられてしまったのです。
それを知った私は恥も外聞も無く先生に食ってかかり
「病院はどこ!無事なの!」と言い寄りました。

先生は事故のショックと
普段はおとなしい私が物凄い剣幕で言い寄ったので少し唖然としていました。
それでも教えてもらって病院まで走りました。
卒業証書も学ランも投げ捨てて。
病院までは3〜4kmぐらいありました息が切れて
2度ほど転びましたけど無我夢中で病院まで走りつづけました
病院について受付に「○○○さんはどうなりましたっ!!」て
飛びかかる勢いで聞いたら、別室に呼ばれて(受付で騒いでいたからだと思う)
今は意識不明の状況で家族と連絡を取っている最中なので
合わす事は出来ないって言われましたが、
さらに食ってかかっているときに彼女の母親が到着しました。

私は母親に「お願いだから合わせて欲しい、約束していたんですっ!」と
頼みましたが聞き入れてもらえませんでした。
呆然と病院の廊下で立ち尽くしていると
看護婦さんが1冊のノートを持ってきて
「○○○さんのお母さんがこれを貴方にって」渡してくれました。
紛れも無く「交換日記」に使っていたノートです。
後で読めばよかったのですがその時は夢中で最後のページを探しました。
それには

「文字じゃ恥ずかしいってこの前書いたけどやっぱり言葉で伝えるね」

と1行だけ書いてありました。
いろいろ詮索しているうちに担任の先生や彼女の友達が病院に到着しました。
教頭先生(だったと思う)が一人だけ中に呼ばれた。
彼女は亡くなっていた。今でも忘れない14時28分だ
私は涙はでるが声は出なかった。出したくても出なかった。出したかった。
すいません続きは拙い文章でよければまた書きます、
ちょっと思い出してしまった。
554 1/3 05/01/14 04:34:02 ID:1zCjLcer
私達親子は阪神淡路大震災の時、自衛隊のみなさんに大変助けていただきました。

震災当時、私達夫婦には6歳になる息子があり、私は神戸市役所勤務、妻は保健婦として勤める共稼ぎをしておりました。震災直後から、二人とも職務に忙殺されていて、息子は保育所の先生とボランティアのケースワーカーの方に頼らざるを得ないような状況でした。これは、私達夫婦がいない時に起こったことで、後になって息子とお世話になった自衛隊員から聞いたことです。

震災のあと、二月に入ったころ、息子が近所の公園で遊んでいた時にかなり大きな余震があり、息子は「揺れ」にトラウマがあったためにその場で動けなくなっていました。そばで給水活動をしていた若い自衛官が息子を抱き上げてくれたそうです。息子はその自衛官の足にしがみついたまま震えていたと聞きました。「お兄ちゃんがいるから安心しな」ってずっと抱きしめていてくれた、と後になって息子から聞きました。給水活動の持ち場は、その人の上官が代わってくれたそうです。

このことは、私達はしばらくのあいだ知らないままでした。息子が小学校2年生になったとき、「あのときのお兄ちゃんにあいたい」と聞かされ、そのときに息子を助けてくれた自衛官のいたことをはじめて知ったのです

555 2/3 05/01/14 04:34:35 ID:1zCjLcer
息子が小学校二年になったときに、本人の口から聞かされた「お兄ちゃん」のことは私達夫婦にとっても、直接あってお礼を言わなければならない人になりました。その年の七夕の笹飾りに「お兄ちゃんにあいたい」と息子が書いたのをみて、わたしは息子の希望をかなえるべく人捜しをはじめました。記憶をたどりながら、「たしか、、あの車には、第○××大隊、、と書いてあった」防衛施設庁に電話をして、事情を話すと極めて迅速に調べてくれました。滋賀県にあるその部隊まで息子をつれて出かけました。前もって電話でお願いしていたので、息子は「お兄ちゃん」との再会を果たすことができmした。

あったとたんに、息子が飛びつき、「おにいちゃん」も「おおきくなったなー」と抱き上げてくれました。息子が身体をぶつけてそのうれしさを表現しているのを見て、あの混乱の最中、父親として満たしてやれなかった部分を補ってくれた、この若い自衛官に頭の下がる思いでした。

556 3/3 05/01/14 04:35:53 ID:1zCjLcer
息子は「お兄ちゃん」のことを「臭いお兄ちゃん」とずっと」言っていました。抱き着いた時、よほど汗臭かったのでしょう。息子の言う「臭い」は決して悪い意味ではなく、憧れのようなものがあったはずです。そう言えば、当時いちばん辛かったのは自衛官の人だったかもしれません。私達に炊き出しはしてくれても、あの人たちはカップラーメンを食べていた。簡易風呂も私達が」先に入った。。。涙がでます、思い出して。その、息子もはや高校生です。

今年の春は「お兄ちゃん」の婚礼に息子が招待されました。
一人前にあつかわれた息子はうれしそうでした。

自衛官の御一人お一人に感謝の言葉をいいたいです。
本当に感謝しています

最後に、私達は、村山元総理の犯した罪を忘れることはありません。
428 :名無し物書き@推敲中?:04/09/01 15:45
俺の近所に住んでた爺さんの話。

一人暮らしだった爺さんは子供好きで、ちっちゃい頃の俺もよく遊んでもらってた。ある時、爺さんの家で見た暴れん坊将軍(だったと思う)の1シーンで老中と主役が「じい」「若」と呼び合うのを二人で真似して
俺「じい!今日も遊びに来たぞ。」
爺「若、よくぞいらっしゃいました。」
なんて呼び合って遊んでいた。
そんな関係は俺が他県の大学に進学するまで延々と続いていた。

卒業後に実家に戻ってきたらなんと「じい」が脳卒中やって入院中だという。さっそく見舞いに行ってみたら「じい」はたくさんの管に繋がれてベッドに横たわっていた。看護士の話では外界からの刺激にはなんの反応も示さない状態だと言う。
俺は「じい」に呼びかけてみた。
「じい、俺だぞ。覚えてるか?」
ダメもとのつもりだった。・・・が、次の瞬間、閉じられていた「じい」の目がカッと見開きそして今まで昏睡してたとは思えないようなハッキリとした声で喋った。

      「若、ご立派になられましたな。」

もう意識が戻ることはないと聞かされていた俺、そしてソレを言った当の本人である看護士。二人して悲鳴をあげるほどビックリした。付き添いで来ていたオカンなどは腰を抜かしたほどである。直ちに医師が呼ばれ「じい」の意識回復の検査が行われたが、その頃には再び「じい」の目は閉じられていた。
そして結局、それっきり目覚めることのないまま半月後、「じい」は永遠の眠りについてしまったのだった。

後に医師から聞かされた話なのだが、「じい」が脳に負った障害は重く、そこから意識が回復した例は聞いたことがない、というかまずあり得ないということであった。だがあの場にいた俺は、オカンは、看護士は、確かにその《あり得ない事態》を見た。そして聞いたのだ。
「アンタに会うために目を覚ましたんだろうね。」 とは腰を抜かしてたオカンの談である。そして「じい」の残してくれた言葉に恥じぬようになろうと心に誓ったものの結局こんな時間から2chに入り浸ってるような、天国の「じい」に申し訳ない俺なのであった。
389 :名無しさん@明日があるさ :04/11/26 21:17:47

学生時代、書類の手続きで1年半ぶりに実家に帰った時のこと。
本当は泊まる予定だったんだが、次の日に遊ぶ予定が入ってしまったので結局日帰りにしてしまった。
母にサインやら捺印やらをしてもらい、帰ろうとして玄関で靴紐を結んでいると、父が会社から帰ってきた。
口数が少なく、何かにつけて小言や私や母の愚痴を言う父親のことが苦手で、一緒に居ると息苦しさを感じていたの私は、父が帰宅する前に帰ってしまいたいというのも、日帰り、ひいては通えない距離の学校を選んだの理由の一つだった。
父が、「お前、泊まるんじゃなかったのか」と訊いたので、
「ちょっと忙しいから」とぶっきらぼうに答えると、手に持っていたドーナツの箱を私に差し出し、「これやるから、電車の中で食え。道中長いだろうから」と言った。

駅に着くと、電車は行ったばかりのようで人気がなく、30分は
待たされるようだった。
小腹が減ったので、父からもらったドーナツの箱を開けた。
3個ずつ3種類入っていた。
家族3人でお茶するつもりだったんだなぁ。
でも、私が9個貰っても食べきれないよ。
箱の中を覗き込みながら苦笑した。
その直後。
あぁ、あの人は凄く不器用なだけなんだろうな―。
ふとそう思うと、涙がぼろぼろ出てきた。
様々な感情や思い出が泡のように浮かんでは消えるけど、どれもこれも切なかったり苦かったりばっかりで。
手持ちのポケットティッシュが無くなっても、ハンカチが洗濯して干す前みたいに濡れても涙は止まらなくて、結局、一本あとの電車が来るまで駅のベンチでずっと泣き続けていた。

メモ(心遣い)

2005年1月19日 メモ
846 :名無したん(;´Д`)ハァハァ :04/08/16 16:24 ID:o0cRFOQ4

大学生のとき、一人暮らしのアパートを引っ越すことになった。
友人数人と、電車45で分ぐらい離れた実家から姉が手伝いに来てくれたのだが、なぜか姉はデカイ荷物持参。「?」と思いつつ作業を開始し、昼飯時。コンビニや食べ物屋に行くのも大変な田舎のこと。しかし俺は見栄はって、仕出屋に寿司の出前を頼んでおいた。友人らには大好評。夕方前には引越し終了。

新居でひとまず落ち着いて、友人らも帰っていった。
が、最後まで残っていた姉が、例のデカイ荷物をもったまま帰ろうとする。「引っ越し祝いか何かじゃないのか?」と問い詰めても言葉を濁すばかり。じれったくなってむりやり荷物を奪い中身を見ると――大量のオニギリだった。

「引越しで台所も片付けてるし、みんなお昼に食べるものないだろうと思ったんだけど……。すごいお寿司とか出てきたから、出しにくくなっちゃった」

恥ずかしそうに苦笑する姉。俺は泣きそうになった。
もちろんそのオニギリは全部ひきとって、ラップにくるんで冷凍保存し、一週間かけて全部食べた。最高にうまいおにぎりだった。
363 :名無し物書き@推敲中?:04/08/04 12:20

長文をお許しください。

家内を亡くしました。お腹に第二子を宿した彼女が乗ったタクシーは、病院に向かう途中に居眠り運転のトラックと激突。即死のようでした。警察から連絡が来たときはひどい冗談だと思いました。いつものように今朝も笑顔で送ってくれたのに。冷たくなった彼女と対面しても現実の事態として理解できませんでした。

帰宅して呆然としているところ、トラックを運転していた男性の父親と婚約者の訪問を受けました。父親は土下座しながら、「自分と家内が死んでお詫びするから、息子には生きていく事を許してほしい」と。警察から聞いたところによると、入院している母親の治療費を稼ぐため男性は無理な労働をしており、それが居眠り運転をした原因のようでした。

同様に土下座している婚約者に目をやると、若くて綺麗な女性にもかかわらず荒れた手をしています。本来ならとっくに結婚しているところ、運転手の母親の入院のために延期し、彼女もまた入院費を捻出するために懸命に働いていると聞きました。私は何て言葉をかければいいのか分かりませんでした。

家内の葬儀にはトラック運転手が警察官に伴われて参列しました。彼には思い切り罵詈雑言をぶつけ、殴ってやろうと思いました。一生憎むつもりでした。しかし、震えながら土下座し私の顔を見ることのできない彼を見ると、「彼もまたこれから苦しみを背負っていく人間なのだろう」との思いがよぎりました。

「つまらない人間のために家内を亡くしたと思いたくない。罪は罪として償ってもらうが、その後はきちんと生きて欲しい」。私が彼にかけた言葉です。正しかったかどうか分かりません。本当の私の本音かどうかもわかりません。ただ、私には彼を憎むことができませんでした。震える声で返事をする彼をみると私の気持ちは伝わったようです。

怒りをぶつけられる相手だったらよかったのに。彼そして彼の家族に会わなければよかった。

葬儀の後ようやく一人になれてウィスキーをなめていると3歳の長男が起きてきました。私の横にすわりながら「お母さん大好きだったんでしょ。いなくなって悲しいんでしょ。悲しいときは泣くんだよ」と。私は息子の前でも家内を愛していることを口に出す父親でした。好きな女と生きていける幸せをいつも伝えてました。息子相手に、付き合った時どんなに楽しかったか、私の子供を生んでくれてどんなに嬉しかったか、どれくらい幸せにしてくれたか、と家内の思い出をぽつぽつと語っているうちに涙がとまらなくなりました。

今思えば、この時になってようやく家内及びお腹の子の死を現実のものとして捉えることができました。そう、悲しくて泣くことによって。凍結した感情が解凍したことによって。

情けない父親でごめんな。

交通刑務所にいるトラック運転手から時折手紙が届きます。謝罪をつづった言葉ばかりですが、行間から彼もまた苦しんでいる様子が伺えます。人の命を奪った自分が生きていってもいいのだろうか、と。また、彼の婚約者から毎月手紙とともに金が送付されてます。最初は受け取りを拒否しようと思いましたが、考えを変えて新しく作った口座に預金しています。彼が出所したらファイルに綴じた彼の手紙とともに通帳を渡すつもりです。そして「これらのものを背負いつつ、きちんと人生を歩んで欲しい」と伝えるつもりです。

私たち親子もまた大事な家族を失った事実を背負って生きていきます。私は父親として、社会人として一生懸命な背中を息子に見せ、息子の目に写る私は誰よりも強い男であるべく努めたいと思っております。家内が安心できるように。二人で頑張っていきます。

だから時々泣くことは許して欲しい。誰にも分からないようにするから。
【もてない女板】喪女さんの数少ないいい思い出【暖かくて乾いた手】
http://s03.2log.net/home/aiyaiya17/archives/blog153.html
402 :名無し物書き@推敲中?:04/08/24 14:30

サキちゃんのママは重い病気と闘っていたが、死期を悟ってパパを枕元に呼んだ。
その時、サキちゃんはまだ2歳。
「あなた、サキのためにビデオを3本残します。
 このビデオの1本目は、サキの3歳の誕生日に。2本目は小学校の入学式に。
 そして3本目は…○○○の日に見せてあげてください」
まもなく、サキちゃんのママは天国へと旅立った。

そして、サキちゃんの3歳の誕生日。1本目のビデオがかけられた。
(ビデオからつないだテレビ画面に、病室のママが映し出される)
「サキちゃん、お誕生日おめでとう。ママ、うれしいなぁ。
 でもママはね、テレビの中に引っ越したの。だから、こうやってしか会えない。
 パパの言うことをよく聞いて、おりこうさんでいてね。だったら、ママ、また会いに来ます」

サキちゃんの小学校入学の日。2本目のビデオ。
「サキちゃん、大きくなったネ。おめでとう……。ママ、うれしいな。どんなにこの日を待っていたか。
 サキちゃん、ちゃんと聞いてね。
 ママが今住んでいるところは、天国なの。だから、もう会えない。
 でもね、パパのお手伝いがちゃんとできたら、ママ、もう一回だけ、会いに来ます。
 じゃあ、魔法をかけるよ。 エイッ!
 ほうら、サキちゃんは料理や洗濯ができるようになりました」

そして3本目のビデオ。そのタイトルは、こう書いてあった。

「新しいママが来た日のサキちゃんに」

そしてサキちゃんが10歳の時、パパは再婚し、新しいママが来た。
3人いっしょに、3本目のビデオを見つめた。
なつかしいママの顔が映し出された。
「サキちゃん、おうちの仕事、がんばったね。えらかったね。
 でも、もう大丈夫。新しいママが来たんだから。
 ……
 サキちゃん。今日で本当にお別れです。
 ……
 サキちゃん、今、身長はどれくらい?ママには見えない。
 (泣き崩れ、カメラを抱え込む姿が映る)
 ママ、もっと生きたい…。
 あなたのために、おいしいものいっぱいつくってあげたい…。
 あなたの成長を見つめていたい…。
 じゃあ、サキちゃん、これがママの最後の魔法です。
 それは、『ママを忘れる魔法』です。
 ママを忘れて、パパと、新しいママと、楽しい暮らしをつくってください。
 では、魔法をかけます。1、2、3、ハイッ!」
そこでビデオは終わった。

しかし、サキちゃんに、この魔法は効かなかった。
パパと、新しいママにも効かなかった。
ママは、みんなの心の中に、ちゃんと残っていた。

そして今度は、サキちゃんが主役の、4本目のビデオがつくられたのだった。
天国のママに見てもらうために

メモ(父と母)

2005年1月14日 メモ
32 :名無しさん@明日があるさ :04/09/16 01:24:55

俺の母親は俺が十二歳の時に死んだ。
ただの風邪で入院してから一週間後に、死んだ。
親父は俺の二十歳の誕生日の一ヶ月後に死んだ。

俺の二十歳の誕生日に入院中の親父から手紙を渡された。
黄ばんだ封筒を開けるとセロハンテープの後がくっきり写る。
中を読むとお袋からの手紙だった。

『パパになったたけしへ』

内容は俺が生まれた時のことから中学の入学した頃までのことが書いてあった。
生まれた子が俺で良かったって。短い間だったけど楽しかったって。
感謝してるって。でも、ゴメンって。
だからあなたの子供にはあなたと同じ思いはさせないで頂戴って。

泣きながら読んでる俺に親父が謝った。
すまんなって。でも何を謝ることがあるのか。
お袋が死んでから親父は忙しい中俺のために働いてくれた。
遊びにも連れてってくれた。反抗期の息子に何を言われても黙ってた。
俺は知ってた。お袋が死んだ直後親父の手に出来た沢山の包丁傷の跡。
あれほど好きだったゴルフをやめたこと。いつの間にかタバコもやめてたな。
こっちこそゴメン。ダメな息子でゴメン。

俺は普通の人より早く両親を亡くしてるだろうけど、他の誰にも負けないくらい幸せだ。
家族3人で過ごした思い出は何よりの宝物。
父さん、母さん、ありがと、ほんとにありがと。
31 :1 :04/12/09 14:24:04 ID:KQOgpMNT
子供の頃、家は流行らない商店で貧乏だった。
母がパートに出て何とか生活できているよう程度の生活だ。
学校の集金のたびに母親がため息をついていたのをよく憶えている。
別段、小学校、中学校は何とも思わなかったけれど、
高校の入り、進学を考えた頃から両親と喧嘩することが多くなった。
私は大学に進みたかった。美大に行って本格的に絵を描きたかったからだ。
しかし進学するのに必要なお金など、どう考えても捻出できなかった。
毎日、昼のパート、夕方からのパートと掛け持ちで働き、くたくたになっている母親に、
「何で進学できないんだよ!子供の進学資金も出せないようじゃ親失格だぜ!」
と言ったことがある。
母親は涙ぐみ何も言わなかった。
その姿にハッと我に返ったが、ぶつけようのない悔しさが邪魔をしてそのまま謝りもしなかった。
しばらく後になって、あの時なぜ謝らなかったのだろうと猛烈に悔やむことになった。

母親は事故で亡くなり、直接謝ることは出来なくなってしまったのだ。
パートの帰りの運転中の事故だった。
交差点に突っ込んでの事故で、ブレーキ痕もない、、
過労だと思う、、

葬式の後、母の部屋を整理していて日記とも家計簿とも取れるようなノートを見つけた。
食費や光熱費、、、私は家計をやりくりした事など当然ないが、
そんな私が見てもギリギリの生活だった。
母親が自分のために使ったものなど何一つなかった。
なのに、、私のための進学のための貯金があった。
ぎりぎりの生活の中で、本当に数百円の単位で毎月貯金してあった。
私が怒鳴ったあたりから、パートの時間が増えていた。
後でわかった事だが、パートの勤務時間を頼み込んで増やしていたようだ。
増えた分は全て貯金、、

私はバカだった。
自分のことだけだった。
母の笑った顔を最後に見たのはいつだったろう?
私は何一つ親孝行などしてない、
母がいなくなってから、後悔の連続だった。
苦労ばかりかけて、自分のことばかり考えていた。
何の親孝行もしていない。
なぜあんな事を言ったのか、謝らなかったのか、
謝りたい、心から母に謝りたかった。

そんな時、ものすごくリアルな夢を見た。
夢の中で母親は居間で座っていた。
母を見つけた私は、泣きながら母親に詫びた。
何もしてやれないで、ひどい事を言って、ごめんと。
本当に子供のように泣いた。
母親は私の手を握って、
「謝らなくちゃいけないのはお母さんだから、、ごめんね」と言った。
それを聞いて、私はますます声をあげて泣いた。
起きた時は枕まで涙で濡れていた。
そして手にははっきりと、母の手の感覚が残っていた。

それだけならリアルな夢で終わっていたのだが、
その夢を見た朝、父が
「今朝、母さんの夢を見た。」と言うのだ。
私のことをよろしくと言ったらしい。
父が直接会いに行って話したらいいと母に言うと、
もう会ってきたからと言ったそうだ。
後悔の念が見せた夢で、偶然の事かもしれない。
でも、夢であれ母に謝ることができて良かった。

結局、私は大学には行けなかった。
今は普通の会社員だ。
が、暇を見つけては絵を描いて、
描きあがった絵は仏壇の前に飾っている。
絵を好きになったのは、美大に行きたかったのは、
子供の頃「上手に描けたね」と言ってくれた母の一言がきっかけだった。
それに気づいたから。
今も、母の事を思うと自責の念で心が痛むけれど、
その母のためにもがんばって生きていきたいと思う。

長文の上、乱文で申し訳ありませんでした。
いい話とはいえない話だったと思いますが、
読んでくださった方、ありがとうございました。

メモ(フォーク)

2004年12月29日 メモ
415 :癒されたい名無しさん :04/12/25 18:31:12 ID:Uw7l74ei

時々思い出す小学生の頃の話を書きます。
私は市のスポーツ少年団のとあるチームに所属していました。
あるチームには右手が不自由な子が一人いて、ハンデはあってもみんなと
一緒に楽しくそのスポーツに打ち込んでて、友達も大勢いる子でした。
私のチームのコーチが私に言いました。

あのチームはこないだの大会でがんばったごほうびに、コーチが
ステーキを全員にご馳走したんだ。
店で、ナイフとフォークが出てきた。
でも、みんなが食べ初めても、あの右手が不自由な子はじっとしてた。
ナイフが使えないから困ってたんだ。
それを見て、他のチームメイトはどうしたと思う?

私は「他の子がお肉を切ってあげたんですか?」と聞きました。
でも違いました。他の子はその子がじっとしてるのに気がつくと、
全員ナイフを置いて、フォークだけで肉を食べ始めたんです。
その子も同じように食べ始めたそうです。

私は子供心に自分の答えが甘かったなあ、と思いました。このことを
20年くらいたった今でも時々思い出すのです。
地味な話ですみません。

メモ(心意気)

2004年12月29日 メモ
10 名前: 禿 02/12/09 15:52

今年の夏の話だ。夕暮れ時、私の店に1人の若者が入ってきた。
ツーリングの途中で自転車のチェーンが切れてしまったので
修理して欲しいとの依頼だった。詳しく聞くと、こんな事になるとは思って
無かったので1円も持ってない。家まではまだ30kmほど離れて
いるとの事。正直言って、お金はもらえないな・・・と思ったが、
腐れ縁も縁のうちと考え修理した。代金をもらう事は半分諦めて、
いつでもいいから、こっちに来る用事があったら持ってきてくれ!とだけ
言って、名前も聞かずに送り出した。

若者は次の日曜日に自転車に乗って戻ってきた。

私はその若者が帰ってこないと考えていたことを恥じた。
こういうことがあると、商売も悪くないぞヲイ。

メモ(おはよう)

2004年12月29日 メモ
447 名前: 癒されたい名無しさん 04/08/09 00:18 ID:7/a5/vkc

毎朝、新聞配達をしている少年がいました。
一人のおじさんが少年に会ったので「おはよう」と挨拶をしました。
少年は笑顔で会釈を返しました。
次の日もおじさんは挨拶をしましたが少年は笑顔で会釈を返すだけでした。

おじさんは配達所の所長に文句をいいに行きました。
「あの子どもは人に挨拶もできないのか!」と怒りました。
所長は素直に謝り言いました。「あの子は耳が聞こえずしゃべれないんですよ。
学費も新聞の奨学金でやってましてね。家が助かってるとお母さんもよろこんでましてね。」

翌日少年が新聞を配るとおじさんが画用紙を持って待っていました。
そこには[おはよう◯◯君、いつもありがとう]と書いてありました。
少年は涙をこらえながら何回も何回もお辞儀をしました。

メモ(偽善者)

2004年12月29日 メモ
629 名前:おさかなくわえた名無しさん[sage] 投稿日:04/12/24 08:44:45 ID:/MpArGT+
 小学生の頃、自分にとても自信がなかった私は、
 毎日愛想笑いを浮かべて顔色を見ている自分がものすごい極悪人だと思っていた。
 あるとき、私に悩みを相談してきてくれた子がいて、まじめに聞いて、出来る
 限りのアドバイスをした。
 その子はその悩みは親にも他の友人にも言えなかったらしく、
  「ありがとう、優しいね」
 ととても喜んでくれた。
 けれどあの時ひねくれていた私は、
  「自分は優しくない。そう見えるとしたら、それは偽善者だからだ」
 みたいな事を言ってしまった。今から思うとただの馬鹿だ。

 その子は私の言葉を聞いて、少し考えてから、こんな事を言ってくれた。

  「でもね、偽善者の偽って、人の為って書くんだよ?」

 今から思えば金八先生みたいな台詞だが、私にとってはそれがものすごく嬉しくて、
 その子の前でぽろぽろ泣いてしまった。

 私なんかよりもずっと優しかったあの子も、今はもうこの世にはいない。
 数年前に、病で死んでしまったそうだ。
 今でもあの時の、切なさと嬉しさと悲しさが一緒くたになったような感覚が、
 はっきりと思い出せる。

メモ(遺産)

2004年12月23日 メモ
63 名前: 名無し物書き@推敲中? 02/02/27 13:56

三年前に親父が死んだんだけど、ほとんど遺産を整理し終えた後に
親父が大事にしていた金庫があったんだよ、うちは三人兄弟なんだけど
おふくろも死んじゃってて誰もその金庫の中身を知らなくてさ
とりあえず兄弟家族みんな呼んで、その金庫をあけることにしたんだけど
これがまた頑丈でなかなか開かないんだよ。仕方ないから鍵屋を呼んで
開けてもらうことにしたんだけど、なかなか開かなくてさ
なんとなく俺たちは子供の頃の話を始めたんだよ、親父は昔からすごい厳格で
子供の前で笑ったことも一度もなくて旅行なんてほんとにいかなかった
子育てもお袋に任せっきりで餓鬼の頃はマジで親父に殺意を覚えたよ

んで、一番下の弟が、そういうわけだからしこたま溜め込んでるんじゃねえか?
みたいなことを言い出して、その後に真中の弟も親父が夜中に金庫の前で
ニヤニヤしながらガサガサやってんのを見た とかいったから
俺もかなり金庫の中身に期待を抱いちゃったんだ
んで、そのときに鍵屋がちょうど「カギ、開きましたよ」といったから
ワクワクしながら金庫の前に行き、長男の俺が金庫のドアを開けたんだ
そしたら、まず中からでてきたのは、古びた100点満点のテストなんだ
それをみた一番下の弟が「これ、俺のだ!」といって俺から取り上げたんだよ
次に出てきたのは、なんかの表彰状、すると次は次男が”俺のだ”といいだして
その後にネクタイが出てきたんだ、見覚えがあるなあと思って
気がついて叫んじゃった「あ、これ俺が初めての給料で親父に買ってやったネクタイだ」
その後に次々と昔の品物が出てきて、最後に黒い小箱が出てきたんだよ
その中には子供の頃に家の前で家族全員で撮った古い写真が一枚出てきたんだ

それを見た俺の嫁さんが泣き出しちゃってさ、その後にみんなもなんだか
泣き出しちゃって、俺も最初は、なんでこんなものが金庫のなかにあるのかが分からなくて
なんだよ、金目のものがねーじゃんとか思ってちょっと鬱になってたんだけど
少したって中に入っていたものの意味が理解できたとき、その写真を持ちながら
肩震わして泣いちゃったんだ。人前で初めて本気で号泣しちまったよ
そこで鍵屋が、きまずそうに「あの、私そろそろ戻ります」とかいったんで
みんなが、はっとして涙をにじませながら「ありがとうございました」

このとき、俺は親父がどんなに俺たちのこと想っていてくれたかと
さっきまでの自分が金目当てで金庫を開けようとしたこと
子供の頃に親父に反感を抱き、喧嘩ばっかりしたことが恥ずかしくて仕方がなかった
親父は金よりもほんとうに大事なものを俺たちに遺していってくれたと思っている
375 名前: あるHPからのコピペ 04/07/24 11:04 ID:BykQd952

ヘンリー・フォーセットはある日、父親の狩りに同行しました。
二人は森の中で狩りに夢中になって、愉快に過ごしていました。
ところが、父親が誤って猟銃を撃ち、それがたまたま悲劇的にも、
息子の両目を潰してしまったのです。

息子は当時、まだ20才という若さでした。

その事故の前には、息子は聡明で、大志を抱いた、前途有望な若者でした。
たとえその事故によって彼が絶望に打ちひしがれ、心を頑なにしてしまったとしても、
誰も彼を責めることなどできなかったでしょう。

そして初めのうちは、彼にも自分がその道を辿るかのように見えたのでした。
しかし彼の救いとなり、絶望のどん底から抜け出るのを助けてくれたものが一つだけありました。

それは彼が父親を深く愛していたことです。

彼は父親が息子にしてしまったことを苦に思って、気も狂わんばかりになっていたことを知っていたのです。
そして父親の正気を保つためには、自分が絶望のどん底に陥らずに、
希望を抱くしかないと悟ったヘンリーは、実際にそうすることにしたのです。

心が沈んでいても、快活な振りをしました。
人生への興味を失っていたのに、興味がある振りをしました。
また人の役に立てるという希望などなかったのに、
そういう希望を抱いてるような振りをしたのです。

ところがそうしている内に、奇妙なことが起きたのです。

最初は見せ掛けだったものが、現実となったのでした。
人生に対する意欲と情熱がよみがえってきました。
自分の人生で最善を尽くし、最後までとことん戦おうと決意したのです。

その結果、ヘンリー・フォーセットは下院議員に選出され、
それからの生涯、影響力のある議員として活躍しました。

後には、首相グラッドストーンの任命によって、郵政大臣となり、
小包郵便や、郵便為替を初めて導入して、
英国の郵便、および電報制度を大いに改善したのです。

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