超超超久しぶりに日記を書きます。
「まさか、またココを使う日がくるとは!」という心境でございます。
blog では言いたくないけど、
書いて整理しておきたいこととかが出てきてしまう環境になってしまったということでしょうか。

しっかし・・・ここの日記、今読み返すと「めちゃっはずかしい!」です。
我ながらバカなことをつらつらと書いているもんだと思う。
まーそれだけ“暴走”してしまうんだろうね。
いい勉強になりました。
それも含めて「20代」を総括しなきゃならんかな
(あっ、ここの日記はそういう時期に書いていたんだと改めてビックリ)。
そういうのもおいおいとやっていきましょうか。


さて、ここの基本姿勢は 2004年11月18日の日記
『日記サービス(その2)』
http://53804.diarynote.jp/200411182129240000/
のままでいきます。

今、オイラの周辺で一番ホットな話題は仕事環境に関することです。
なんというか、またしても「世の中いろんな人がいる」 という話になりますなぁ。
ふと思ったんだけど、オイラが絡む仕事はなぜかこういう場所ばっかりなような気がする・・・。

そんなことも含めて整理していこう。
インターネットを利用して日記をつけ始めたのはインフォシークのプロフィールが1番最初。2番目がここ。

そのうちブログが発展し、写真やコメント機能、リンク解析など使い勝手が飛躍的に良くなっていったことから、オイラ自身もメインぺージはプログに移った。

しばらくするとmixiに誘われ、さて、日記をどうつけていけばよいものかとずいぶん迷った。もともと複数のページを持ちたいとは思っていなかったため、mixiでのページを開設した当初は、mixiの日記とブログを繋げて使っていた(mixi日記に共有する機能があるのです)。

そのうち自分が書く日記にはタイプが明確に分かれてきているのを感じ、その用途に応じて日記を使い分けることにした。なるべく気軽な近況報告をかねた日記はmixiで、考え事などの分量的にまとまった日記はブログで、そしてここは、あまりおおっぴらには書きたくない、けれどもキチンと整理しておきたいことを書く、そんな場所にしようとした。

でも一方で、どれも同じ私なのだから、ひとつの日記だけにしようかという思いもあった。でも、結局、mixiは極親しい人との接する場でもあるので、ウラ話というか、ちょっとひとこと書ける場所として使うことにし、基本ラインはブログとmixiの2本でいこうと決めた。

僕がここをあまり使っていない主な理由はこんなところ。
もうずいぶんと使っていないし、こんなことを書く意味もないような気がするけど、なんだか書きたい気分になったので書いてみた。

悩んでいるのはこの場所をプログとリンクさせたほうがいいのかどうか。リンクさせてしまえば、ここで独自に更新することはまずなくなる。考え事はプログで書くようになってしまったから。

でもま、迷っているうちはリンクさせるべきではないんだろうなとも思う。削除も考えたけど、削除させていない理由も同じだ。

なんだか禅問答のような、自分自身に問いかける場になっているのかもね、ここって。

行動

2005年6月26日 恋愛
人の気持ちというものは行動こそに表れるものだと感じています。
これは僕の経験則です。

意識してみれば、ちょっとした一言や仕草で
相手の感情が伝わってきたりします。

僕はわりかし単純で、うれしかったら即行動します。
うれしくなかったら、早めに“嬉しくないサイン”を出します。

返事は未だ来ないのですが、
このことからも相手の気持ちがなんとなくですが、
感じるものがあります。

感受性が強すぎるのか、それとも単純なのか、
綺麗な月を見ただけで喜んでしまうようなウサギ年のオイラは、
とてもむなしい気持ちになったりします。

かといって、恋愛に振り回されて日常をほったらかしに
してしまうような甘ったれた年齢でもないので、
やるべきことはやっています。
逆に気合が入りまくったりします。

こういうのは、時間が解決してくれるものかなとも。

人生、いろいろあるよ。うん。

待ち

2005年6月12日 恋愛
「とても優しく誠実で、素敵な人」などと言われても、
最終的に「友達で・・・」と言われてしまっては、
そんなものまったく意味が無いわけでして・・・。

内面的には問題ないみたいなので、
ほかに原因として思いつくのは
容姿、経済面ぐらいしかない・・・ような気がする。

外面で言えば、彼女より背は低いし、年下だし、
どこをどうとってもカッコイイ部類には入らないだろう。
経済面、いわゆる甲斐性の面でいえば、
会社を辞めて学校へ行ってることを想像してもらえばよいだろう。

僕のスタンスとして“男は稼いでなんぼ”という考えが根底にあるので、
現状では言い訳はいっさいできない。
僕という人間を評価した上で、今、将来についての評価すればいいと思う。
男を見る面で、稼ぎをひとつの指標にするのは当然のことだから。

人にはいろんな「好きになる」があるのだから。
ここであれこれ書いているのは、なんとなくだけど、
書けば落ち着くことができるからだ。
モヤモヤ感は頭の中で整理できていないせい。
文字にしておこしてみると、スッキリするんだな。

何が起ころうが時間が止まるわけでもなく、
日常は進んでいく。

落ち込み続けるのは性に合わないし、
なにより落ち込み続けるのが許されるような
甘ったれた年齢でもない。
なので、今の僕はいたってポジティブなのです。

ダメージが全く無いわけではないんだけど、
こういったことは時間が解決してくれることだとも思う。

人を好きになるのはすばらしいこと。
僕は人間が人間であることに嬉しさを感じることができる、
そういう感覚が好きだ。

映画や漫画や小説や音楽や、
そして日常における嬉しいこと悲しいこと楽しいこと辛いこと、
これらはすべて、みーんな人間であるからこそ感じることができる。

「悲しいことや辛いことなんて、感じたいと思っている人なんていないよ」

確かにそうだろう。
でも、人生それらを感じずに生きられるだろうか?
僕が思うに、それは無理だと思う。
生きていれば、必ず誰もが経験するのだ。
だったら、僕はそれらを肯定的に捉えたい。

人間のすばらしいところは、
それらをすべて乗り越えて生きていくたくましさにある。

人間として生きていくこと。
僕は、感謝したい。

心の整理。

2005年6月11日 恋愛
返信を書く。2回目の手紙。
理由について、明確に示されていないのは、
なんとも心地が悪いから、それを尋ねるために書いた。
にしても、今の今まではっきりと示しされていないのも
ちと違和感を感じる。
僕が逆の立場なら、間違いなく理由を書いているだろうから。

惹かれた主な理由は

・礼儀正しかったこと
・一生懸命に仕事をしていたこと

この2点だった。

「友達宣言」をされたのにもかかわらず、
それを認めようとしなかった自分がいたのだろうか。
「喪失感を感じる」という言葉が僕を引き止めた。
僕を必要としてくれているのなら、
彼女が希望する「友達として」付き合うのもいいだろうと。

ある日、彼女に「ふられている」ということを強く実感する。
「一生懸命」(これは礼儀にも関わる)を感じなくなったのだ。
ささいなことかもしれない。
僕が過敏すぎるのかもしれない。

人を好きになることや、愛することというのは、
行動することだと思う。
行動を見れば、それは一目瞭然なことなんだ。

友達付き合いも、似たようなものなんじゃないかなあと思う。
仕事でもそうだ。

人付き合いって「気持ちのぶつかり合い」なんだなあと、
今更ながらに思う。
偶然、ごっつく久しぶりに
カラオケへ行く機会に恵まれました。
ブームの“星のラブレター”を歌いました。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
“ 星のラブレター” 作詞:宮沢和史

庭に出て 月あかりで あたたかい夜に
君に書いたラブレターを 読み直してみるよ
我ながら良く書けた文だ 三枚も書いた
コオロギが便せんに止まった 失礼なやつだ

君に会いに行くよ 君に会いに行くよ
愛してます 好きにしてよ 君に会いに行くよ

朝日通りは 夕飯時 いつもの野良犬たちが
僕の知らない 君の話 時々聞かせてくれた
年をとって生命がつきて 星のかけらになっても
昨日聴かせた僕の歌 町中に流れてる

君に会いに行くよ 君に会いに行くよ
愛してます 好きにしてよ 君に会いに行くよ

あんなに楽しかった夏休みだったのに
君のママとも仲良くなったのに
秋になって 冬を越えて サヨナラと言った
何十年 指折りかぞえて自転車に乗って また

君に会いに行くよ 君に会いに行くよ
愛してます 好きにしてよ 君に会いに行くよ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
Fin.
手紙を書き、そして送った。

告白というものは、方向性を決定してしまうものだと思う。
受け入れてくれれば付き合いは続くし、
受け入れてもらえなければ付き合いは続かない。

それだけに、
告白する側には“ある種の勝算”があるからこそ、
告白するのだと思う。

独身者同士の友達関係って、ありえないものなのかもね。
恋愛って、難しいとは思わない。
どんなかたちであろうと、それが恋愛だから。

好きだからこそ、会えない、会いたくない。

恋愛感情を持っている方にとって、友達のままで付き合うということは、
たまらなく辛いことなのだと、今更ながらに感じている。

あの時、僕は現実を受け入れられなかっただけなんじゃないだろうかと。

伝えなければ伝わらない。

だから、伝えます。
最近ムツゴロウ熱が高まってきた。
もいっちょ感想など。
−−−−−−−−−−−−−−−−
どこ吹く風だ 麦畑

「あのですね、耳に入れておいた方がいいと思いますけ
 ど、A子とBの行い、ちょっと目に余りますよ。この
 ところBは、夜になるとA子の部屋に入り浸りなんです」
「それがどうした?」
「だってBは、C子と結婚の約束をしているんですよ。
 ときどき二人は、車で出かけますが、その車、すぐ近
 くのラブホテルに駐(と)まっているんですよ」
「それで?」
「冷たいんだなあ、ムツさんは。Bの奴、もめごとの種
 子(たね)をまいているんですよ」
「あのなぁ」
「はい?」
「誰かさんと誰かさんが麦畑、なんだよ」
「何ですか、それは」
「こっそりキスした、いいじゃないか。な、歌にもそう
 あるんだ」
「キスだけでしょうか」
「知るかい、そんなこと」
「男と女が二人っきりでいてですよ」
「することはたくさんある。英語の学習をしているかも
 知れないし、セッセッセをしているかも知れない。ど
 うでもいいんだ、そんなことは」
「よくありません」
「正義漢なんだね、君は。まるで月光仮面みたいだ」
「ぼくは−−ぼくは、愉快に生きていたいんです。です
 から、三角関係のもつれがまわりに起きて欲しくない
 のです」
「あのなぁ」
「はい」
「うちの憲法は、旨い物は早い者勝ち。それが第一条で、
 一つしかないから、唯一条と言ってもよろしい。しか
 し、かつては第二条があり、それは、恋愛は自由だが、
 三角関係が同じ空間であってはならないことを決めて
 あった。男性Aが女性B、Cと恋愛した時、女性Dが
 男性E、Fと寝た時、つまり、三角関係の頂点に当た
 る、AとDは、退去すべきだという決まりだった。こ
 しらえはしたのだが、すぐにつまらなくなって、即刻
 廃案にしてしまったのだよ」
「またァ、どうしてなんですか」
「だからさ、誰かさんと誰かさんが麦畑なんだよ」
「分かんないなあ」
「いいかい、よく聞けよ!」
 と、私は居ずまいを正した。
「三角関係がどうしたの、こうしたのという馬鹿な決ま
 りを作ると、人はそれにとらわれて、あの人とあの人
 が二人で出かけた、何をするのだろうと空想するよう
 になる。おれ、それはいやしい行為だと思う。目の前
 にいない人たちの行為を、あれこれと想像するのはよ
 くないことだ、恥ずべきことだ」
「そうでしょうか」
「君の両親がだよ、お休みと言って寝室に引き揚げて行
 ったとしよう。君は、それから先を空想するか」
「だって二人は、世間が認める正当な夫婦じゃありませんか」
「正当であろうとなかろうと、想像だけは出来るわけじ
 ゃないか。ああして、こうしてと思っている内に、と
 んでもない空想に発展していく。そしてそれは、いや
 しい、恥ずべき行いなんだよ」
「そうかも知れません」
「おれは世界をまわって、うちのような人間の集まりは
 ないものかと捜したのだが、短期間、出来はするのだ
 が、すぐつぶれてしまっている。つぶれる理由の最大
 のものは、二つだけだ。一つは金の分配。もう一つが、
 男と女の間のもつれなんだよ。まあね、金については
 だよ、うちはずっと心配しなくてよかった。皆の稼ぎ
 が足りなくったって、おれのをまわしていたからね。
 もめたって仕方がなかったさ。でも、男と女のことは、
 ずいぶんあったっけなあ。結婚しただけでも、十五組
 はいるんだぜ」
「子供も多くなりました」
「どうしてだろうね。自然や動物のことに関係し、集団
 をつくると、その中で男と女が結ばれるんだ」
「嫁さんを他から連れてくることはありませんでしたね」
「恋愛もまた多かったけれどね」
「あります、あります」
「おれ、見ないのが正解だと思う。ある人が目の前から
 去る。その瞬間、何をしようと構わないと思ってしま
 うんだ。突きはなすと言ってよし。切る、断つと言っ
 てよし。つまりだ、誰かさんと誰かさんが麦畑なんだ」
「なあるほど」
「おれ、こんなことがあったよ。ある日、おれのもとの
 書斎に行ったんだ。ドアを開けたとたん、ベッドが見
 え、そこに男と女の頭が並んでいた。おれは、さっと
 ドアをしめたっけ。そして、二人が何をしていたのか、
 いやした後なのか、空想しようとしている自分を叱り
 つけた。疲れて寝ていただけかも知れないしね」
「その二人、どうしましたか」
「一年ほど経って結婚したさ」
「ムツさん、その間、何も言わなかったのですか」
「いや、半年後ぐらいだったかなあ、二人がひどい喧嘩
 をしてねえ、ちょっと聞き苦しいことを言い合ってい
 たので、二人に命令を下した。二人で、ラブホテルへ
 行け。そして、夜中まで帰ってくるなとね。二人を車
 のとこまで連れて行き、乗せ、ホテル代を渡し、とに
 かく行ってこいと言ったさ」
「行きましたか」
「どこかへ行ったみたいだよ。車はゲートを出て行き、
 林の中へ消えた」
「ホテルに行ったんでしょうかねえ」
「それが余分だと言うんだよ。消えた、はいおいまいと
 いうのが正しい。今の日本のマスコミ文化を見ている
 とだね、空想を拡大する報道が多いよね。とくに、テ
 レビのショウ番組や写真週刊誌などは、二人で歩いて
 いる所を写しただけで、その先を想像してしまってい
 るものね。プライバシーの侵害であり、人間が人間ら
 しく生きていく権利を奪っているよね。そう思わないか」
「思います。行き過ぎが多いです」
「個人の生活は麦畑」
「誰かさんと誰かさん、でしたよね」
「麦畑」
「何をしても、知るものか」
「どこ吹く風だ、麦畑」
「いいっすね。何だか楽しくなってきました」
「だろう。気にするな。目にするな。何よりも空想するな、麦畑」
 私は、からから大声で笑った。何か大切な宝を得た気分だった。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

はじめて告白した際、
「私が他の男の人と会ったら怒る人?」
と尋ねられたことがある。

自分が見えないところで、相手が何をしているかなんて、
考えるのはなんだか無駄というか、意味がないような気がして、
そのときは「別にいいんじゃないの」と答えたっけ。

要するに「相手を信じるか、信じないか」の問題じゃなかろうか。
「相手を信じられない」のなら、人なんて好きにならないほうがいい。

自分自身の基本姿勢は、
「相手がした行為に関して自分が嫌だと感じることは、
 自分も行わない」。

それが思いやりであり、信じることにつながるんじゃないかなあ。

年上

2005年3月30日 恋愛
去年の今頃は告白していなかったので
結構必死に(相手にはさりげなく?)アピールしてたっけ。

当日にはお気に入りのケーキ(結構遠いところにある)を
驚かせようと思って黙って届け、
後日、誕生日祝いという名目でメシを食べに行ったときに、
軽いプレゼントをしたり。

いろいろあって、彼女ってわけではない人なのだけど、
今でも、お互いに外でメシ食ったり、お互いの家でメシ食ったりしてて。

オイラ的には完全に割り切っちゃってて(たぶん相手も)、
気分転換に会っているような(一方的ではなく)、
そんな関係。
お互いの生き方を認め合う親友みたいな感じ。

僕はこれから3年間、学校に通わなくてはならない身。
目指した道を進む。
人生の集大成として。

理屈じゃない。
理屈で考えていたら、今の状態はない。

自然に。
無理に動かすのは、なんだか間違っているような気がする。



よし、これでいい。
うん、やっぱりそうだ。
なんとなく書き始めたのだけど、たまに書くのも悪くない。
僕が学生時代に読んだ本の中で、特に影響を受けた作家のひとりである畑 正憲さん。この名前を聞いてピンとくる人はいるだろうか? 実は畑 正憲さんはあの『ムツゴロウとゆかいな仲間たち』のムツゴロウさんである。

きっかけは覚えてないのだけど、図書室で『ムツゴロウの青春記』(というような題名だったと思う)という本が目に入り、「へ〜、ムツゴロウといえば、あの動物好きなおっちゃんじゃないの。どんなこと書いてるんだろ」と軽い気持ちで手にとって読んでみた。

その内容は自伝的なものだったのだけど、あの穏やかな風貌からは想像できない、とてつもなく豪快な人生の一端が記されていた。これは当時の僕にとって、竜巻の中に巻き込まれるような感覚を受けたほど衝撃的で、そのムツゴロウさんの人生録、人生観に惹かれ、その本をむさぼるように読んだ記憶がある。

今、僕は図書館に通う日々を送っているのだけど、つい学生時代を思い出し、ムツゴロウさんの著作を探してみた。そこで見つけた本が『ムツゴロウのどこ吹く風』(潮出版社)。勉強の息抜きに読んでみた。

久しぶりに時間を忘れるぐらい、集中した読書ができたので、じっくり持って帰って読もうと思い、参考資料と一緒に借りた。

ちょっと、気に入ったところを抜粋。

***********************
 娘の結婚

 娘の家族は、林の中で平和に暮らしている。私にとっては孫にあたる子供が三人いて、オオカミが二匹、マメタロウという名のテリアがいる。
 夫婦に子供三人、犬が三匹。いつの間にか大家族である。
 長女はすでに小学校二年生。
 時は、私のまわりを矢のように流れていく。
 娘の旦那Tは、沖縄の出身であり、遠くから眺めていると、どうやらパチンコ、競馬、麻雀などが大好きで、スポーツ好きの愛煙家である。
 かつて娘は言ったものである。
「わたし、それは結婚はしたいけど、ギャンブルをしない人、煙草を吸わない人、そのくらいの注文はつけたいわ」
 その二つの条件は、見事に外れた。
 ざまあ見ろ、である。男と女の微妙な出会いなど、人に分かってたまるものか。
 結婚するにあたって、娘がまず私の所へやってきた。
「あのう」
「何だ」
「話が」
「ふうん」
「あのう」
「結婚か」
「はい」
「どうぞ」
「え」
「いいんじゃない」
「有難う、パパ」
「わしゃ知らん。お前たちの問題だ」
 以上が、私たちの会話である。
 次の日、Tがやってきた。
「あのう」
「ほれきた」
「ご相談が」
「好きな女が出来たか」
「はい」
「それなら抱け」
「え」
「レイプしろ」
「は」
「しかる後に結婚を考えろ」
「はい」
「おれは知らん。たとえそれがおれの娘だとしてもだ、手ごめにされたって、おれじゃないんだから」
 翌月、二人でやってきた。
「結婚したいんです。」
「ようし、馬を引け。競馬をしよう。」

〜(略)〜

 私は、結婚式と葬式が嫌いで、首になわをつけないと出席しない。パーティーの類も、百ある誘いの内、出るのは一つか二つである。
 心の中で祝い、心の中で悼んでいれば、その方が自分にふさわしいのだと考えている。友人が死んだ時などには、馬の鞍をつけ、林の小道にまぎれこむ。
 林の、自分が気に入った場所に馬をつなぎ、梢ごしに空を見ながら、亡き友をしのびつつ煙草を一本喫うのである。
 華美な結婚式を挙げさせたくなかった。
「おれ、派手だと逃げ出すぞ」
「家族だけでいいわ」
「おい、アラスカに行こうか」
「賛成」
「霧の中で、ちょこなんと挙げるのはどうだろうね」
 それは、本当に実現してしまった。
 クック入江の奥にある、人口四十人程度の村に、丸太小屋の教会があったのである。
 牧師はすでにいなかったが、退職した老夫婦が牧師代わりを務めてくれた。
 友人のジョージが訊いた。
「Tというのは、いい青年だね」
「うん、よさそうだ」
「何をしてるのかね」
「は?」
 私は慌てた。何も聞いていないのである。
「学校で、何を学んだのだい」
「学校、そうだ、学校だったね」
 学歴を聞いたりしなかったのを私は思い出した。
 最近は情報をかいつまんで知らせる風習がマンエンしていて、雑誌に小文を書くと、プロフィール、肩書、顔写真をつけて下さいと注文される。どうして、そのような必要があるのかとムッとするけれども、流行であり、そうしないと編集する方が安心しないようである。
 私は、Tが目の前に立っているだけでよかったのだ。今の姿で充分である。プロフィールや学歴などでつかまえたくなかったので、要らざる情報は耳に入れたくないと振り払っていたのかもしれない。
 ジョージは、ムツさんらしいやと笑い、大きな手で私の肩をポンと叩いた。
***********************

ちなみにムツゴロウさんは東大卒。
見習うことはできないけれど、見習いたい。

気付いたこと。

2005年3月9日 日常
しばらくこちらを使っていませんでしたが、
それによって気付いたこと。
やはりこちらはこちらで需要があるな、ということ。

書きたいことが増えてきたので、
折を見て書いていこうと思います。
こちらでの日記更新はかなりの比率で滞る予定(閉鎖はしません)。
理由は「column@管理人室」というプログを読んで
思うところあったから。

Blogとはなんぞや
http://poron.txt-nifty.com/blog/2005/02/blog.html

「書く」という行為はなかなか興味深い行動であると思う。
一番の読者は他ならぬ「自分」なのだけど、
webに書いているところに意味がある・・・はず。

とりあえず、今後は別の場所で書いている
近況報告用日記一本に絞っていきたいと思います。

もし私宛に何かある方はプロフィールに書いてある
連絡先にメールください。



ちなみにカテゴリ「メモ」にて書いてある内容は、
「Walkin’ Around増刊号」
http://s03.2log.net/home/minusplus/
というページからの転載です。
今後、私がここに転載することはないと思います。
参考までに。

ゆーどら 拝

メモ(仕事人)

2005年1月31日 メモ
213 :人が死なないやつを :04/12/22 23:56:30

ある阪神の選手が引退を決意
引退試合には一打席だけ立たせてもらえることになった
愛する娘に「パパ頑張ってくるよ」と言うと
まだ幼いその娘は「パパはどうしていつもホームラン打たないの? 最後にパパのホームランが見たいよ」
と言った
その選手は所謂二番打者タイプでバントや流し打ちなど繋ぐバッティングを期待されていた選手だった
だからその娘は、ほとんど父親のホームランを見たことがなかった
それに気付いたその選手は「分かった。じゃあ最後はパパ、ホームラン打ってくるよ」
と娘に言い、試合に臨んだ

そして試合中、ランナー一塁の場面でその選手に打席が回ってきた
いつもより大きくバットを構える
相手投手も、ど真ん中にボールを投げる


そしてその選手は…………バットを構え、送りバントをした


ランナーは二塁に進み、犠打の記録がつく
その選手は笑顔でヘルメットを掲げ、甲子園球場の声援に応えた
最後の最後まで自分のスタイルを貫いたその姿に、ファンも割れんばかりの拍手を返した

そして試合終了後、娘のもとによると、
その娘は約束を守らなかった父親に文句を言うこともなく
涙を溜めながら、笑顔でたった一言

「パパ、お疲れ様」
と、父親を労った
お父さん。
あれから六年だな。
俺は大学で毎日研究をしてる。
今年、学会で賞をもらった。
去年、結婚した。
大学に入ってから仕送りしてくれたお金で、婚約指輪を買ってやった。
お父さんからだぞって言って渡した。
かずはお母さんの仕送りと俺の給料でなんとか大学に行かせてやれた。
四年で卒業して就職して、おととしお嫁に行った。
キャリアウーマンとかいって、かっこつけて歩いてるくせに、少し太った。
幸せそうだけど、たまに夫婦げんかをして泣きながら電話をしてくることがある。
お母さんは、一人で店を頑張っている。
一緒に住もうと言ってもまだ頑張るって、言うことをさっぱり聞いてくれない。
お父さんへの恩返しはもうできないけどさ、
お母さんと妹といつか生まれてくる俺の子供に精一杯のことをしてあげるつもりでいる。
お父さんの描いた将来に少しは近づいているのかなぁ。

俺が生まれてからお父さんが酒もたばこもやめたって葬式で聞いた。
酒は飲めないんだと思ってた。
そんなことを聞いてから今まで、酒を一滴も飲まなかった。
昨日、法要が終わってから、
高校生の頃お父さんがくれた千円札で瓶ビールとチューハイを買ってきた。
千円札を出すとき涙がでたよ。
違うお札にしようかと思ったけど、やっぱり使ってみた。
うちの奥さんと、お父さんの話をしながら酒を飲もうかと思ったんだ。
うちの奥さんは結構酒が飲めるらしい。
二人で初めて飲む酒はきっと楽しい酒だ。
さっきメールが来て、夕食はカレーだって。
俺が昔作ったのよりずっとうまいカレーをお父さんと一緒に食べたい。
カレーを食べながら話したいことがまだまだたくさん、たくさんあるんだ。
238 :素敵な旦那様:04/12/27 14:30:15

昨日、親父の七回忌だった。

うちは本当に貧乏でさ、商売やってたんだけど、
つぶれてシャッターがおりてる店がほとんどの寂れた商店街の隅っこに店があって、
それでも「店で待っていてもお客は来ない」って
両親は毎日毎日朝から晩まで注文取りに走り回ってた。

俺は五歳下の妹と二人兄弟で、小学生の頃から
いつも二人で夕食を作って遅くまで両親の帰りを待ってた。
小学生の料理なんてうまいはずはないけれど、
親父は「お前たちのカレーはすごくいい味だ」ってほめてくれた。

明るい家族だったから、貧乏でも楽しかった。
休みの日には、大きな鍋とインスタントラーメンを持って海に行って、
たき火をしてラーメンを煮て食べた。
おいしかったなぁ。

小学校中学校と放課後友達と遊んだ記憶はほとんどない。
妹の面倒見なくちゃいけなかったし、家の手伝いもあったし。

高校受験の時にね、「こんな暮らしをしててもお前は貧乏から抜け出せない。
家のことはいいからちゃんと大学出て、自分でやりたいことを見つけろ」って
親父が言ってくれて、鹿児島の全寮制の高校に行かせてくれたんだ。

バイトはできなかったけど、運良く奨学金がもらえて仕送りなしで高校に通えた。
たまに帰省すると、その度にくしゃくしゃの千円札を
母親に隠れて何枚か渡してくれて、「少しで悪いな」って。
そんな金使えないよな。
今でもしまってある。
35枚。

馬鹿なりに一生懸命勉強して東京の国立大に受かった。
ホントは受かっただけで満足だった。
でも、親父すごく喜んでさ
「商売がんばってるから大学行ったら仕送りしてやれるぞ」って。

大学に入ってからはバイトバイトの毎日で、何とか授業料と生活費は自分で稼いだ。
大学でも寮に入れたから家賃は楽だった。
親からの仕送りは毎月三万円。
もったいなくて使えずに郵便局の仕送り口座にお金が貯まっていって、
「好きに使っていいんだぞ」なんて手紙が来たりして。
そう言われると、苦労して送ってくれてるお金を
そのままにしておくのも悪い気がして、
毎月郵便局から引き出して、銀行の口座に移してた。

卒業間近になって、大学院を勧めてくれる先生がいたけど、
早く就職して親に仕送りしてあげたいと思ってたから、断った。
そのころ、たまたま東京の親戚が亡くなって、東京に両親が来た。
何を思ったか研究室にまで押しかけて来ちゃってさ、
先生に御礼なんか言ったりして。
そうしたら先生が余計なこと言い出しちゃって、
大学院を親に勧めるのよ。
親父またまた喜んじゃって
「なんで断ったりするんだ」なんて叱られちゃったりして。
結局、大学院にも進ませてくれた。
同じ大学の大学院に行くときも入学金って必要なんだよね。
毎月の三万円積み立てから25万円出した。
初めて仕送りを使った。

大学院に行ったら、研究でで食っていけるかななんて思い始めて
、学振の特別研究員に受かった(月に20万も給料が出る)こともあって、
修士終わってから博士課程に進むことにした。
博士になったら学生なのに仕送りができる!って内心かなりうれしかった。

修士論文を提出した日。
初めて母親から研究室に電話。
「どうしたの研究室に電話なんかして。修士になったよ。次は博士だぞ。」
「あのね、お父さん、ここ何日かずっと調子悪いって言ってて、
今日胃カメラ飲んだの。写真見せてもらったら、ものすごい状態だった。」って。

末期の胃ガン。
背中の方に向かって進行していたから、
食欲も衰えずに気づかないことがあるらしい。
目の前真っ暗。
頭の中真っ白。
「そんなわけないだろっ」って大声で叫んでしまって、
同じ研究室の学生に「どうしたんですか」って。

医者に電話したら「一日でも早く手術しないと」って話で、
友達にお父さんが医学部の教授ってやつがいて、
そいつに頼んで「消化器ガンなら日本一」って先生を紹介してもらった。

三日後に入院して七日後に手術。
胃全摘、脾臓全摘、膵臓半分摘出の大手術。
手術の前の晩、親父と二人で人気のない病院のロビーで、手術のこと話した。
地元の病院で撮った胃カメラの写真を見て、自分の病気はよく知っていた。
どんな状態かも知っていた。
でも「悪いところ取って、ようやく第二の人生だな」と笑って言っていた。
明るい親父に家族はどれだけ救われたか。
手術が終わって、先生に摘出した臓器を見せてもらった。
金属製のバットに山盛り。
こんなに取っても人間は生きられるのかって思った。
先生は「取れるところはすべて取りましたよ。
後は抗ガン剤で転移巣をやっつけます。」と言っていた。

でも、手術後少ししてからずーっと背中に激しい痛み。
抗ガン剤も効果はいまひとつ。
俺と妹と母親と、親戚の家から毎日病院に通って交代で夜通し付きっきりの看病。
妹は50kgから30kgに激やせ。

もう痛みが我慢できないと言うので、
真っ赤なモルヒネ錠剤を経口で投与して痛みを抑えてた。
モルヒネが効いているうちはなんとか普通の感じ。
車いすに乗っけて、中庭に連れて行ったりもした。
俺、親父と二人っきりでいたことなんてないからなんとなく気まずくて、
車いすを景色のいいところに押していって、少し離れたところでぼーっと座ってた。
「近くにいてくれないか」と言われて近くに行ったら、
子供の頃手をつないでもらった時とは
比べものにならないくらい細くなった腕を膝掛けから出して、
しわしわになってしまった手でぎゅっと手を握られた。
二人で声も出さずに泣いた。

ある日「五年後の話をしてくれないか」とベッドの父に聞かれて、
「俺は29だからたぶん大学で研究してるな。
妹は24か。結婚して子供もできてるかもよ。
お母さんは、うーん、まだ店がんばってるんじゃない?
お父さんは、退院しても胃がないから、毎日グルメ番組見て、
あれがうまそうだ、とか、これ買ってこい、とかわがまま言ってるかもよ」
なんて答えてた。
そんなに長く生きられるなんて俺も親父も思っていなかったくせに。
五年後がどんなに遠い未来なのかも分かっていたくせに。

結局、親父は死んでしまった。
手術から三十三日。
病院で胃カメラ飲んでから四十日。
62歳の誕生日から十日。
夕方研究室から病院に行ったら、もう息を引き取ってた。
「実験してるだろうから、呼ばなくていいぞ」って言ってたらしい。
最後に何かを言い残したらしい。
でも、俺は親父がなんて言ったのか知らない。
悲しすぎて知りたくない。

あんな大手術をさせて、殺してしまったのは俺だって、ずーっと思ってる。
俺が手術をすることを決めて、
家族もみんな俺の言うことに納得してくれて、

でもその結果、親父をあっという間に殺してしまった。
悔やんでも悔やみきれない。
ごめんな、お父さん。本当にごめんな。

葬式。
親戚が「まだ学校に行かせてるのか」なんて、
何にも知らないくせに母親に言ったりしてた。

「この子はお父さんのできなかったこと頑張ってるんだから、
私一人でも最後まで学校に通わせるつもりです。
この子はお父さんの夢なんです。」

って、言ってくれた。
ドアの向こうでそれを聞いていた。
親は有り難いと思った。
もう泣かないつもりが、止めどなくあふれた。
346 名前: 名無し物書き@推敲中? 03/03/17 19:06

中学生の時に付き合っていた女の子が亡くなって、
ちょうど15年目を迎えました。
私も彼女もまだ幼かったんでしょう。
恋愛というよりは二人でじゃれ合っているという
言葉の方が正しかったかも知れません。

ちょうど卒業式の前の日でした。
周りの皆には付き合っているなんて恥ずかしくて言っていませんでした。
って言うより何を以って付き合っているかなんて良く分からなかった。
けれども私は毎日学校の帰り道でクラスメートが
通りそうもない道で待ち合わせをしている日々に充実感さえ感じていた。
お互い進学する学校は全然違うのだけれども他愛もない夢話に毎日夢中になっていた。
そうしてしばらくしてから「交換日記」をしたいと彼女から切り出してきた。
僕はすぐにOKの返事をした。とにかく彼女と何かしてみたかっただけですけどね
そうして卒業式が近づいてきて日記の中に「卒業式に言いたいことがある。
でも恥ずかしいから言葉じゃなく日記に書いて渡しますのでその場で読んでね」と書いてありました
私は舞い上がって卒業式の日を待ち遠しく思っていました。
今にして思えば何か変な期待をしていた筈です。
当日私と彼女はクラスが違うため、
式が終わった後でも校庭では探し出す事が出来ませんでしたし
後輩ともしゃべりたかったのでさして気にもしませんでした

さて探そう..

そう思っていたら突然校内放送が流れて教員が全員職員室に呼ばれました。
「なんかあったのか?」ぐらいにしか思わなかったのですが、
いろいろ噂話を聞いていると誰か交通事故に遭ったらしいとの事でした。
その時に本当に心臓をわしずかみにされたような嫌な気持ちで
少し気分が悪くなったのを今でも忘れられません。

予感は当たっていました。
彼女は式が終わってから自宅に戻り「日記」をもって
私に渡すために自転車に乗って中学校まで来る途中に
大きい道路でバランスを崩し倒れてしまったところに
運悪く都営バスがきてしまいはねられてしまったのです。
それを知った私は恥も外聞も無く先生に食ってかかり
「病院はどこ!無事なの!」と言い寄りました。

先生は事故のショックと
普段はおとなしい私が物凄い剣幕で言い寄ったので少し唖然としていました。
それでも教えてもらって病院まで走りました。
卒業証書も学ランも投げ捨てて。
病院までは3〜4kmぐらいありました息が切れて
2度ほど転びましたけど無我夢中で病院まで走りつづけました
病院について受付に「○○○さんはどうなりましたっ!!」て
飛びかかる勢いで聞いたら、別室に呼ばれて(受付で騒いでいたからだと思う)
今は意識不明の状況で家族と連絡を取っている最中なので
合わす事は出来ないって言われましたが、
さらに食ってかかっているときに彼女の母親が到着しました。

私は母親に「お願いだから合わせて欲しい、約束していたんですっ!」と
頼みましたが聞き入れてもらえませんでした。
呆然と病院の廊下で立ち尽くしていると
看護婦さんが1冊のノートを持ってきて
「○○○さんのお母さんがこれを貴方にって」渡してくれました。
紛れも無く「交換日記」に使っていたノートです。
後で読めばよかったのですがその時は夢中で最後のページを探しました。
それには

「文字じゃ恥ずかしいってこの前書いたけどやっぱり言葉で伝えるね」

と1行だけ書いてありました。
いろいろ詮索しているうちに担任の先生や彼女の友達が病院に到着しました。
教頭先生(だったと思う)が一人だけ中に呼ばれた。
彼女は亡くなっていた。今でも忘れない14時28分だ
私は涙はでるが声は出なかった。出したくても出なかった。出したかった。
すいません続きは拙い文章でよければまた書きます、
ちょっと思い出してしまった。

退職願

2005年1月26日 お仕事
とりあえず正式に受理されたということで。

思うに、雇われの身でありながら文句言っている者ほど見苦しいものはない。文句があるならそれを改善させる方向に進むか、それとも去るか。

とりあえず、ここ最近はチョー忙しいので、日を改めて整理したい。

参考リンク:
「退職願を胸に... 〜OL・会社員のための退職総合情報〜」
http://tnt.web.infoseek.co.jp/index.html

「知って得する労働法」より
http://tamagoya.ne.jp/roudou/062.htm
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【退職】
職業選択の自由は憲法で保証されているものです。したがって就職・退職は基本的にだれしも自由にできます。しかし、職につくということは通常は労働契約ですから、退職もこの労働契約に基づいて考えなければなりません。労働契約は、契約に関する法律として民法が適用されます。

労働契約の場合は、労働者側からの解約申し入れの後【2週間経過後】することによって契約は終了します。使用者の承諾は要りません。(民法627条1項)
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554 1/3 05/01/14 04:34:02 ID:1zCjLcer
私達親子は阪神淡路大震災の時、自衛隊のみなさんに大変助けていただきました。

震災当時、私達夫婦には6歳になる息子があり、私は神戸市役所勤務、妻は保健婦として勤める共稼ぎをしておりました。震災直後から、二人とも職務に忙殺されていて、息子は保育所の先生とボランティアのケースワーカーの方に頼らざるを得ないような状況でした。これは、私達夫婦がいない時に起こったことで、後になって息子とお世話になった自衛隊員から聞いたことです。

震災のあと、二月に入ったころ、息子が近所の公園で遊んでいた時にかなり大きな余震があり、息子は「揺れ」にトラウマがあったためにその場で動けなくなっていました。そばで給水活動をしていた若い自衛官が息子を抱き上げてくれたそうです。息子はその自衛官の足にしがみついたまま震えていたと聞きました。「お兄ちゃんがいるから安心しな」ってずっと抱きしめていてくれた、と後になって息子から聞きました。給水活動の持ち場は、その人の上官が代わってくれたそうです。

このことは、私達はしばらくのあいだ知らないままでした。息子が小学校2年生になったとき、「あのときのお兄ちゃんにあいたい」と聞かされ、そのときに息子を助けてくれた自衛官のいたことをはじめて知ったのです

555 2/3 05/01/14 04:34:35 ID:1zCjLcer
息子が小学校二年になったときに、本人の口から聞かされた「お兄ちゃん」のことは私達夫婦にとっても、直接あってお礼を言わなければならない人になりました。その年の七夕の笹飾りに「お兄ちゃんにあいたい」と息子が書いたのをみて、わたしは息子の希望をかなえるべく人捜しをはじめました。記憶をたどりながら、「たしか、、あの車には、第○××大隊、、と書いてあった」防衛施設庁に電話をして、事情を話すと極めて迅速に調べてくれました。滋賀県にあるその部隊まで息子をつれて出かけました。前もって電話でお願いしていたので、息子は「お兄ちゃん」との再会を果たすことができmした。

あったとたんに、息子が飛びつき、「おにいちゃん」も「おおきくなったなー」と抱き上げてくれました。息子が身体をぶつけてそのうれしさを表現しているのを見て、あの混乱の最中、父親として満たしてやれなかった部分を補ってくれた、この若い自衛官に頭の下がる思いでした。

556 3/3 05/01/14 04:35:53 ID:1zCjLcer
息子は「お兄ちゃん」のことを「臭いお兄ちゃん」とずっと」言っていました。抱き着いた時、よほど汗臭かったのでしょう。息子の言う「臭い」は決して悪い意味ではなく、憧れのようなものがあったはずです。そう言えば、当時いちばん辛かったのは自衛官の人だったかもしれません。私達に炊き出しはしてくれても、あの人たちはカップラーメンを食べていた。簡易風呂も私達が」先に入った。。。涙がでます、思い出して。その、息子もはや高校生です。

今年の春は「お兄ちゃん」の婚礼に息子が招待されました。
一人前にあつかわれた息子はうれしそうでした。

自衛官の御一人お一人に感謝の言葉をいいたいです。
本当に感謝しています

最後に、私達は、村山元総理の犯した罪を忘れることはありません。

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